くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

外国移住者はエイリアンかファミリーか、本来の姿勢を見直す

外国人移住者の受け入れは、TVメディアが報じるほど住民の反応は落ち着いて見えますが、そもそも今すぐその境遇に出くわすような立場でない限り、現実味のうすいのが実際のところでしょう。 

核家族化が一般的になった今では、国内犯罪の増加・人口の偏りなどで外国人比率の増加はそれほど特殊な要因にはならないのかもしれませんし、一歩家から出た時点でその先で関わる人が日本人であるか外国人であるかよりも、いかに時代に合わせた自分の変化が柔軟にできるかが、課題です。 

 

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来たる“移民社会化”に向けて、私たちに必要な2つの「発想の転換」(塩原 良和) | 現代新書 | 講談社(1/4)

 

 その自己変化の過程で、外国人は時にはファミリーの様相を呈したり、場合によってはエイリアンのような脅威と映ることもあるかもしれませんが、彼らを受け入れられるかどうかは、自己意識の柔軟性やメリットの有無の差によって、それぞれで価値が変わってくるはなしなので、総括的に外国人受け入れに結論を出すこと自体は無理があります。

 世間一般には、日本人が外国語下手からのコンンプレックスで、外人に警戒しやすいと言われるようですが、一方で多くの訪日外国人たちの印象は、言葉の壁以外は概ね良くむしろフレンドリーな印象が強いようですから、むしろ自縛的なコンプレックスによる意識的な弊害の方が大きかもしれません。

 

私たちが受け入れ側に立つ以上不利な点は避けられませんが、そもそも受け入れる素性や気質には問題ないのですから、受け入れた後で元々あった問題と一緒に考えるだけですから、国際社会化する時代にはむしろ好都合な体験が増えることへ前向きな行動をした方が、メリットは増えるのではないでしょうか。

 接する人が国内外かかわらず、結果良い人であれば幸福になりますし、悪い人であれば不幸になるわけですので、外人だけ特別視するほうがストレスが溜まりそうですね。

 

 異文化・異宗教の人々と接する上で、価値観の多様性を理解する習慣が大事なのは、経験者であれば知っていても無い人にはピンとこないもしれませんが、現実に存在する多様な価値観を見過ごすことは「無知が起こす危険」につながります。

個人化社会が広がる中で意外と見落とされがちなのは、隣人への無関心への慣れがファミリーを危険に晒すリスクを増やし、その油断ゆえ予想外の変化に極端な行動をしてしまう原因になるということです。

 

日本に古来からあった生活の知恵「向こう三軒両隣」という地域をファミリーとする習慣は、海外由来の「プライバシー」というエイリアンによって侵食されていますが、この発想は本来日本という土地柄に生きる上ではリスクであり、狭い日本では適度なご近所ネットワークが適切であるはずです。

古来から発達していた地域単位でのネットワークは、集団行動で諸問題を解決する日本人には無くてはならないライフスタイルですから、むしろ核家族化から始まった集団意識の崩壊が、外国人受け入れによって浮き彫りになっているだけではないでしょうか。