東海でおこった幻の大震災に学ぶ
阪神淡路大震災や東北大震災、熊本地震に教訓されるように、地震大国に住まう私たちはこれからも大地震と付き合いながら、成長を続けなければならない立場にあります。
今回は筆者の最も身近な震災について記事りたいと思いますが、地元の人でも今ではその震災の悲惨さを語れる人は少なくなっているようで、筆者も父から体験談を聞いた者として、伝えたいと思います。
三重)語り継ぐ、昭和東南海地震 情報統制下、実情は:朝日新聞デジタル
「飛ぶ鳥が、まるで翼を失ったように、地べたに落ちてくる……」
皆さんはこの光景を思い浮かべられるでしょうか。
これは、大正末期生まれの父が生前筆者に語ってくれた、戦中(第二次世界大戦)東海地方で起きた未曾有の大地震の光景だそうです。
あまりに衝撃的だった父の体験談に、聞いた当時耳を疑っていました。
まだネットが普及する前の話ですが、どんな地震だったのか当時の筆者はできる範囲本などで調べたのですが、大した情報はなぜか知れませんでした。
これを昭和東南海地震とあとで知ることになるのですが、当時戦事の中で情報を残すどころではなかったのでしょうね、被害詳細やその規模は大方謎に包まれてしまった、リアルな「幻の大地震」だったのです。
過去の歴史を口伝で残される場合、どうしても客観性が削がれてしまいがちですが、父の語った記憶は数は少なくとも、写真に切り取ったようにシンプルで明確でした。
父の体験は、愛知県半田市のものですが、当時武器の製造工場の一つで働いていたときのものだそうで、彼はたまたま昼か何かの休憩時間に工場から外に出ていた際に起こったと、言っていました。
「大気が気味の悪い音で唸り出した、空が黄色く変色した」
「地面が凄まじい勢いで垂直に揺れ、立っておれなかった」
「得意の匍匐前進は基より、這うこともままならず、転がって移動するのがの精一杯だった」
「レンガ造りの工場は間もなく瓦礫と化した」
「揺れが収まったあと工場に戻ったが、うろつく工員の腹が真っ赤に染まり、抑える手を話すと、内臓が流れ出てきた」
「助けて……と懇願するが、何もしてやれなかったのが今でも悔やまれる」
先の飛ぶ鳥が空から降ってくる下りや、空色が黄変して唸る光景は、筆者が幼少時に食い入るように見ていたTVドラマ「日本沈没」の一場面でも出ており、それなりに臨場感を持てたほど、説得力のある説明でした。
「将来大地震が起こったときは、絶対に立って逃げられんから、転がってでも安全な場所に逃げろよ」
というのが、息子の私に教えてくれた教訓でした。
それ以来、私は小さな地震が起こる度に、父の語りぐさを思い出しては身の締まる思いをするのですが、父もなくなって数十年経過した今も、幸いにも大震災を体感することなく、無事に過ごせている事に感謝の念が耐えません。
しかしながら、この間にも国内の他の地域で発生した大地震では、こう言った教訓がどれだけ生かされたのか、語れる立場にはありませんが、かつて起こった大震災は日本各地で爪痕を残し、口伝としてではありますが残されてはいます。
これは、機会があるごとに国や自治体がデータベースとして集積し、事あるごとに公開や資料として、国民全員が共有できる仕組みを作ってもいいのでは無いでしょうか。
紹介記事のように、リアルな語り部はいずれ寿命を終えれば聞けなくなってしまいますから、現代の情報共有が便利な時代において、地震と付き合って行かなければならない私たちにとっては、いつでも紐解ける辞書のように共有できて然るべきでしょうし、先達の貴重なアドバイスは私たちの代で消してしまわぬように、最大限の工夫を施したいものです。
そして、インバウンドをより加速させるにあたって、地震情報を隠すのではなくて、起こるときは起こってしまう現実を、訪問者に少しでも安心してもらえるように公開するのは、地震大国ニッポンの彼らに取る「最大のおもてなし」とすべきなのでしょう。