くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

クルマは凶器になるのか、貴重な道具になるのか

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 交通事故通年ワーストワンホルダーの名古屋在住者の筆者にとって、この話題は禁句中禁句だったりしますが、いい加減市内の交通マナーの悪さには辟易しているので、あえて禁断の領域に触れます。(キッパリ) 

 これは統計上の比較では、愛知県と言うことになっていますが、全国でも決して他人事ではないはずですし、かつては考えられない論外の交通事故も珍しくなくなっている時事は何を示しているのでしょうか。

 

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 今、地方の道路で正面衝突事故が増えているそうですが、それ故にこの凶器に成り得る自動車そのものの在り方が問われています。

 この解決には自動運転システムや、様々なメーカーの工夫がされてはいますが、根本的にはやはり操る人間の意識そのものが重要なんだと思います。

 

 この問にそれぞれのドライバーが答えを出さない限り、この根本的な問題を解決しないでしょう、しかし人間が操る限り人間のバグである大きな問題が、永遠に問われることになります。

 そうした意識で自動車自動運転の環境やシステムに根深く横たわる問題を、考えなければならないと期待されているのかもしれません。

 

 単線道路での対向車線同士の自動車正面衝突事故多発が物語ってるものや、地方の予算不足で、無計画な道路拡張のついても、長期的に考えてまったく進まずに頓挫している例が多数見受けられます。

 名古屋でも相変わらず交差点での正面衝突事故や、市内の道路拡張や保全整備が長期的に進まなかった例が幾つもありましたし、この前のNHKの特集番組でも地方の道路が長期間先延ばしにされ、道路幅の狭い単線道路で高速走行して事故るケースが目立つ、と言う問題をあげていました。

 

 そもそも、国内の道路整備計画は、ごくごく一部の経済成長度合いを基準に計画された、都市計画としては偏ったものであったと言わざるを得ず、

 

 このまま拡張工事計画を、継続するのか。

 しないまま、道路利便性を工夫するのか。

この判断は、今後日本各地に散在する問題の解決の、キーワードになりそうです。

 今後、より日本の道路事情と言うものが、便利になるように、そしてそれがひいては世界各地で起こる問題に、大いに役立つ可能性を秘めているだけに、私たちはもっと真剣に考え、自治体・国の計画を見守るべきでしょう。

 

  免許証返納の高齢者に様々なサービス 愛知県の取り組みに世界が注目 - ライブドアニュース 

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  モータリゼーション時代に沿って生活してきた世代が、高齢化しその世代の増加によって、自動車を生活から切り離せないために、運転能力低下に気付かないままで家臣運転の結果、駐車場での店舗腕の破壊事故や、露中での人身事故に繋がる事件は、同じドライバーとして痛ましく、遠くない将来のわが姿を見ているようで、いたたまれません。

 海外でも、台湾を筆頭に東南アジアでのバイクなどの交通マナーは、日本のそれに匹敵してひどいものだそうですが、まだドライバーの年齢層が低いのは、そのマナーをしても結果的に事故らないバランスを取れているのかもしれません。

 

 筆者も、最近はこういった高齢者事故の増加を踏まえると、いくら自分が正しいと信じる運転をしていても、いつどこで事故と遭遇するのか?最近は予測も付かないですが、今後かなり大胆な交通モラルの改正が、求められていくでしょう。

 高齢者でなくとも、かつて運転するのが常識だった時代に比べて、今は若い世代から自家用車を持つ人が減っている傾向があるし、それに比例して運転側の危険性を知る経験もない人が増えることで、事故が一方的な目でしか見られない傾向があります。

 

 加害者に得津加担するつもりはありませんが、運転経験者の減少よって運転者側の心理が軽視され、問題解決の上で必ずしも健全でない場合が考えられますし、単に自動車イコール悪と捉えられ、事件が決定づけられていく怖さがあります。

 これを解決するもっとも合理的な対策は、自動車がよりパーソナルな所有物という認識を軽減し、より公的な目的での移動体として位置づけられることでしょう。

 

 

 さらに自動車は、今後自動運転技術が高まる事によって、より交通システムを客観的に管理することを目的とするでしょうし、今まで自動車の室内空間は住居と異なった異空間としての位置づけから、より住居に近い生活を共有できる空間へと変わっていきそうです。

 今まで「走る喜び」と言っていたのは、車を操る自分の意識を満足させる行為だったのですが、それが誰でも安全に高度な移動をできて、生活の満足感を妨げないものになるということですので、ガソリン自動車全盛の時代を経験する筆者などは、複雑な心境です。

 

 こうした意味合いで移動者は、古い考えではドライバーの個人的な走る満足度を高める道具から、新しい考え方をすれば生活の延長で、一部分として楽しむ手段となるのかもしれません。

 そのような時代が来たときには、自動車事故は激減できているのでしょうか、そうならば多少の自由は奪われるにしても、より効率化された交通網が安全に私たちの、価値ある生活へと役立っているのかもしれません。

 

 人間が運転する以上、交通事故は無くならないとまで言われている、自動車飽和の時代にあって、次世代のAI化された乗り物や交通システムは、私たちの生活をより豊かなものにする、貴重な道具となってくれるのでしょうか?

 それとも相変わらず殺人マシーンとしての悪名を持ち続けてしまうのでしょうか?その近未来は、すでに出口が見えようとしている時期に来ていますので、その恩恵を受けられないドライバーは、それまで自分の身は自分で守るしかないのです。

 ぜひぜひ、ドライバーとしてのモラルをそれぞれが見直しておきたいものです。