ただ住むことと、ちゃんと生活することの違い
一極集中させるより、在宅勤務化を整備すべきなのに、労働者を使い捨てするかのように、企業はより仕事中心生活へ、世の中はワーカーの住む選択肢を狭めているように見えます。
引っ越しの延長との違い
もともとあった田舎生活への憧れで上京したものの、今度は都会にあるもの以外をお求めたり、故郷への望郷の思いを満たすために里帰りが起こるのは、同じ地域間の引っ越しとは違って、家族間の覚悟と決意です。
かつて、都会に自らの理想郷を求めて上京したのは、高度成長期の流行のあおりだったと今なら気づいた今、地方移住を求める世帯が増えだしています。
時代の変化に、つかんだ安定の地に留まるのか、安定からの脱却を志すのかという、人生の選択に関心が高まっているのかも知れません。
また」、安定期に入った狭い日本でなら、よほどの過疎地でなければ不便を感じなくなっていたり、育児環境を模索して敢えて人とのつながりや自然の豊かさに価値を見出す家族が出てきたためです。
中流意識に憧れた団塊世代が前者に対し、その子世代は、親が説いてきた人口増加を前提としたラットゲームの限界に疑問を持ち、ゆとりと揶揄されながら、親世代と価値観の異なる秩序を模索してきました。
その選択肢が憧れの癒やしの田舎、ではなくてかつて親世代が見放した異世界またはフロンティアとしての田舎での、新しい人生の創造なのでしょうか?
筆者の立場は、世代から言って親世代に当たるものの、東京中心主義の虚像に気づいて以来、政治経済の分散を支持するようになったのも、時代の流れかも知れません。
今となっては日本経済はかつての勢いを無くし、予算の捻出にままならない状態では、分散さえ非合理的だと物言いが入るほど、この国は弱くなっています。
その中でようやく都市部に集中した期待は薄れ、一局集中の神通力は弱まったのを、将来を見直す人々は見逃さなかったようです。
海外の物価の安さに惹かれて定年後移住を図る姿を見ても、親世代出さえ戦後の富国政策の恩恵が終わった事を示し、子世代は敏感に感じ取って余裕のある内に国内でゆとりを確保しようとしています。
政府は、仕組み上どうしても東京に人が集まって税金を落としてくれないと困るので、無計画な税金投入で、見た目上活性化を図って首都の価値を維持しようと躍起になっているようにも見えます。
海外の目や世界からも、迷走する日本の評価は、そのごまかしを見抜いているかのように、日本に感化されることなく成長していこうとしています。
このことから言えるのは、日本はすでに追う側に回ってい居るという現実ですが、日本の価値を上げるのには、政府がしようとしている事とは全く角度を変えた根本的な価値観の掘り起こしが必要だということです。
今のこの国魅力は、一部企業の技術力と、潤沢留保資金に裏打ちされた投資市場としての魅力だけしかなくなってる気がしてなりません。
日本の企業株価は海外投資家のいいように乱高下を繰り返すたびに疲弊しているのは、見るに堪えない現実です。
そうこうしているうちに、内部留保と言う魅力も、海外の強かなブレーンによって、早ければ数年で枯渇するのかもしれないと危惧するのです。
これらの予測は、経済数学や理論に裏打ちされていない、妄想の域を出ないものなので皆さん安心して頂きたいし、筆者は物書きとしてこのような近未来がフィクションでのみ実現される事を、切にのぞみたいところだが、小説家の妄想とは言え、とても関心の高いネタの一つであるのには変わりはありません。
地方へ移り住む選択
そういう時代を知ってか知らずか、発想転換に注目する記事は、目立つようになっています。
せっかく住むのには、日本でも有数の住みよさがある愛知県も地域との連携で、なんらかのど真ん中地域になれればいいのですが。