くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

交通被害を轍に、無くてはならないマイカーの在り方に目を向ける

 

 私たちの生活で必要な移動の足ですが、自家用車・タクシー、公共機関では、バス・電車など地域によって過不足が問題にされることがあります。アメリカでは銃社会の問題、日本では自動車社会の問題として、人を脅かす顕著な話題に触れます。

 

f:id:kromaryu:20160116210710j:plain
安全運転セミナー参加風景

 

 一昨日の、スキーツアーでのバス転落事故は、悲劇でした。しばらくなりを潜めていましたが、結局改善効果は出ていない事になりそうですね。それでなくても、「逃げ得は許さない!」と言われるひき逃げ・飲酒運転による人身事故が後を絶たないのは頭の痛い話です、よりドライバーの健康意識や運転意識の向上が求められます。

 また昨今、高齢者の運転事故もニュースに頻出していますし、これらの社会事象を解決するには、どのようにしたらいいのでしょうか。

 

 筆者も遠くない? 将来高齢化に向けて、可能性として自粛を考えもしいている案件だけに、他人事ではないのです。

 今までも高齢者ドライバーは多数いた訳ですが、ここまで高齢者起因の自動車事故が目立ってきたのは、色んな意味での自動車インフラの成熟を意味しているのかもしれません。

 皆さんは現在、高齢者に当たる方もいれば、これからの方もいらっしゃるとは思いますが、自動車・バイクなど、普段の生活や仕事に利用されている方は、自分事としてはどのようにお考えでしょうか。

 昨今、初心者ドライバーも少なからず事故率は高いのは従来通りですが、意外と穴なのは、ベテランドライバーの過信の危うさです。

 高齢者ドライバーの事故は、この過信に加え判断能力の低下が加わっていると言われますが、いわゆる「だろう運転」への自覚の欠如が問題です。

 

 ただ、高齢者のそれは、単に危険因子は単に取り締まればいいのか、というだけの問題では無さそうです。

 筆者はまだ名古屋市内という、市街地住まいなので比較的容易に自家用車を無くすのは可能ですが、まだまだ多くの高齢者で車が無いと生活不可能・または困難に陥る方たちは多く居らしゃいます。

 その人たちは、国や自治体のなにがしかの代替補助が無い限り、たとえもっと高齢になっても、サポートの無い以上は、自ら運転して生活の糧を得ていかなければなりませんから、暗に高齢者は全面的に一定年齢を越えたら免許返納とはいかない筈です。

 現状・年齢制限や、検査による運転可否判定の決まりがあるようですが、本当にこれだけの損きり手段だけでいいのか、とは思うのです。

 そのためにも、インフラの整備改革が急がれてはいるようですが、自動運転車の可能性を見ても、まだまだ実現は遠く、交通ルールの再整備もママならない状態ですし、公共機関の見直しも、自治体レベルで改善を図っているようですが、全てをカバーできるわけでもありません。

 解決の急務ではありますが、現実的に時間がかかるのは避けられそうにありません。カギになりそうなのは、自動車に対する意識の変化を待つ事もじゅうようかもしれません。と言うのは、車を個人所有の自由さを優先し、自己主張の手段としての自動車の存在が大きいためです。

 それはそれで他人が口を出すことでは無いと言われてしまえばそれまでですが、その過剰さゆえに運転が派手になったり、運転スキル以上の過度な判断をしてしまう恐ろしさが人間にはあるからです。

 その立場で考えても、運転する自由度の高さを優先するより、事故で人生を狂わすリスクの方が多きくなっている現状がある以上、今後自動車という移動体は、別の価値観を提案していかざるを得なくなっているように思います。

 当面は実現されるまでの間、現状の問題は運転者の意識カイゼン如何の問題に、フォーカスされ続けることになりそうです。

 

 今後の自動車メーカーも過度な所有欲を煽るだけの宣伝よりは、より安全性・運転しやすさをアピールする動きに代わっているようです。

 また運転を楽しむオーナーにとっては少々面白みに欠ける時代にはなりそうですが、自動車運転の楽しみの方向は、だれでも一律により安全に楽しむように変化していくのでしょう。

 

 何よりも自動車にこれから求められるのは、より生活を脅かさない範囲での発展であり、そのための基本は原点に戻る必要があります。

 自動車学校の講習で再三言われたように、車は「走る狂気」にならないためにも、当面は運転者人である限り、一定のミスはさけられず、それは加害者・被害者共に社会的ストレスでしかない以上、運転者はより一層の自重を心得なければならないという事でしょう。