くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋発進 まちおこしに求められる情報を、幅広い時事から考える。

スポーツを科学すると、人の情報価値が上がる未来

今回の話題は、受け取り方によってポジティブにもネガティブにも取れるテーマを扱いますが、スポーツは本来誰もが好印象を持ちやすいもので、健康作りに積極的に継続されている方も多いと思いますが、アマチュアであればある程度マイペースで楽しみながらできる点で、とってもよいものです。

これがプロの世界になると、要求されるレベルも高く、結果を要求されるシビアなもので、オリンピック選手とて賞金目当てでは無いにしても、プロと同様に結果を背負って高い精度を要求される点で同じです。

 

 

スポーツとは、人間の身体機能がどこまで限界に挑められるか、肉体の可能性ポテンシャルを追い求める、ある意味ロマンがあるわけですが、そういう側面を持ちながら一方では、立派な肉体を生かしたビジネスとしての側面も確立されてるわけです。

前者の代表的なのはオリンピックであり、肉体の鍛錬を通して精神をも鍛えるという、とても高尚な意味や目的を持っていましたし、後者ではプロスポーツと言われる商業スポーツであり、高度な運動技術を駆使して観客を共感させ疑似体験を提供します。

 

本来のスポーツは、国の威信を かけたカネの価値とはかけ離れた分野であり、人が世界の中心であり主人公であった時代の、象徴と言えたしそれに意義を唱えるものは皆無でしたが、その神聖たるスポーツが偽りの美酒を味わうために、不正との闘いの場と化しています。

一例には、ドーピングなどの不正行為による、新記録更新を狙う動きが問題視されるように、本来から人間が持つポテンシャルと可能性を追及するのが本筋であるのに、人の身体機能の解明と、活かし方は倫理問題と併せて、深刻な課題の一つになっています。

 

また、不正行為がなくとも選手の育成には莫大な費用がかかるために、裕福でも無い限りスポーツ以外の金策をしたり、優秀な選手には企業がスポンサーについたり、スポーツとカネは相入れない関係であることは避けられないことです。

そうであってもスポーツは健全でクリーンなイメージが維持され、価値を求められるという矛盾を抱えながらも、その魅力がさらに健全さやクリーンさを追い求める人が後を立ちませんがなぜなのでしょうか。

 

この理由については、冒頭で書いたとおり人によって意見が変わってくるでしょうが、筆者はスポーツが、人そのもが商品化される時代の橋渡しのようなポジションになっていると考えてみたいと思います。

どういう意味かと言いますと、いわゆるスポーツ選手の多くが最新の計測センサーを使って、身体機能や癖やロスを数値化し、データベースを活用した記録更新を当たり前のようにする時代の中です。

 

現代社会には常識となる時間効率の切り詰めや、作業性の見直しヘの応用としての技術に、IT企業が研究団体に先行投資していますが、そうした時間価値や作業効率の良し悪しが価値を持ち出した社会で、人の身体性能のばらつきはリスクと考える時代です。

 スポーツとは一般的には健全な精神に宿る、人間の肉体や精神の究極を目指す指針であると同時に、見方を変えれば人モノカネが最も効率よく生産性や合理性を得る際に、人のメンタルや肉体の不規則さが、リスクとなるかどうかを研究する科学と言えないでしょうか。

 

仮にそういう視点で捉えれば、人の身体能力の測定値はAIに学習させる材料になりますし、医学的な生体データも商業的に見れば、人の行動特性や心理的嗜好性をはかることができれば、そのデータベースは莫大なマネーを生み、資本化も興味を示すでしょう。

人そのものいやありとあらゆる行動や思考を数値化できれば、その模倣や行動への対策、心理誘導も理論的にできてしまうわけで、この事実を前向きに取るかどうかは、社会が今後人が住みやすくするかしないかを左右するということです。

 

どちらに取ってカネに変えていくかは、企業や資本家の目論見次第であり、スポーツマンを含む市民の試験体は、抵抗するとなると身体データを計らせないか拒否し続けるしか方法はありません。

果たして私たちは、そこまで神経質になるべきか、積極的に提供すべきかはその答えをそれぞれが仮説し行動することになりますが、今の時代カメラやセンサーがあらゆる場所で使われていて、都市部では避けられないのが現実です。

 

スポーツマンの身体能力の計測から始まった、人の機能の数値化と応用は既に私たち全てに始められている今、多くの人の身体価値が少しでも前向きに活用されることを願うのみですが、その結末は進行中で誰にもわかりません。

ただ、このデータはゆくゆくAIの神経に当たる機能強化へ応用されるでしょうし、その結果は人が新しい価値を創出させていく時代が来ることを示すものであり、それを意識自覚して自分を生かす道を工夫していくことになるのを、忘れ