くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

「兵隊さん、ありがとう」

第二次世界大戦終戦の日を、また新たに一つ刻んだ日を越えてその分当時の事実を知る機会が削られましたが、当時の暑い夏の思いを私たちはどれだけ省みることができたでしょうか。

今年は例年になく暑い夏になって、セミがあちこちで時を惜しむように鳴き続けており、感染の苦悩も相まって過ごしにくい日々を送っているなかで、お隣の国ではひたひたと軍隊の足音が聞こえてくるようです。

 

筆者は当然ながら直接の戦争体験は無い世代ですが、いくらかの身近な体験者から当時の戦争の話をたくさん聞いてきた中で、今でも胸をつまらせる話の一つを書いてみたいと思います。

ご存知の通り、先の大戦には戦闘員としてあまりにも多くの若者を中心に、働き盛りの男性たちが、徴兵され国内外の戦地に送り込まれましたが、にわか作りの軍隊はあちこちで最前線に送り込まれ、多くの予想通り負け戦に巻き込まれて、戦死最悪は自刃に追い込まれていきました。

 

国内での彼らを送り出したおんな子どもたちは、しばらくはその事実も知らされることなく「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンを本気で信じて、あらん限りの人材や物資を軍に提供していきます。

残された国民でまだ幼い子供たちは、昔の様に野原を走り回れる日を夢見ながら、悲壮な表情を殺しながら戦地に向かった大人の男性に向かって、けなげにも「兵隊さん、ありがとう」と無垢な心で感謝していたそうです。

 

終戦後、その生き残った子どもたちは、どんなことを考えながら大人になり、厳しい現実を生き延びてきたのでしょうか、ある者は現実の欺瞞を知り反骨精神で生き抜いた人もいるでしょうし、現実を知って挫折し社会の悪を受け入れながら、平和を利用して成りあがった者もいるでしょう。

いずれにしても、私たちはその子供たちの子孫であるという事実は、戦争を知らない子どもたちに戦争を忘れる事を選ばせたのでしょう、戦争がなぜ起こってなぜ避けられないのか、その最も大事な生きる知恵を伝えていく選択を、放棄してしま結果がいまの社会の姿です。

 

GHQWGPで情報操作による大戦正当化が進められたり、中共の影響を受けた日本人が要職について、さらに戦争贖罪意識を増殖させたことによる後遺症は大きいとしても、現実的に家族を養うために、戦争の本質に向き合うゆとりは持てなかったと言うのが事実なのかもしれません。

それにしても、戦争の正当性を誤って植え付けられた子供たちにとっては、当然の帰結だったのでしょうか、もし子供たちが兵隊さんに対して発した感謝の言葉は、本来とても純粋な「護るための犠牲」への感謝の気持ちであったはずで、全てはその純粋さを利用した当時の大人に問題があったはずです。

 

そして現在、今の子供たちは自衛隊員に助けられたときに、同じ言葉を投げかけますが、その純粋さは全く変わらないけれど、当時の感謝の言葉と決定的な違いがあると感じることがしばしばあります。

それがあるとすれば、当時の兵隊さんが誤った情報によって結果的に利用されてしまったのに対し、今の自衛隊員が正しい目的を自覚したうえですべき行動をしていて、その姿に感謝する子どもを見られていることです。

 

何故兵隊さんや、時には武器が必要で使わなければならないのか、私たちはその本来の意味を理解しなければならない筈ですが、しばらくの間その思考停止させられていたり、教えられずにいたための弊害と考えられます。

その空白の期間があった分だけ、現在目の前にある脅威を香港や台湾の人々より実感し、行動に出すにには日本人はまだまだ時間がかかるかもしれませんが、その足かせが今の多くの大人の持つ安定志向にあるのは意識しなければなりません。

 

今の子供たちに今起きているサイレントウォーという未知の戦争の戦い方を、正しく教えられるようになるには、これまでのような主義主張だけでは出来ない現実を認める勇気と、国を守るのに必要な備えと最悪戦さは避けられない覚悟を持たなければなりません。

この現実に、戦争が起こる仕組みを知らない人にとって今すぐできることは、最前線に立っている自衛隊員の行動からこそ学ぶしかなく、彼らの自覚と覚悟を共有し子どもへ伝える姿勢が正しいのではないでしょうか。

 

今までは国際的無知のために、あらぬ戦争に巻き込まれ敗者にさせられた屈辱を、むしろ隠し繊維放棄を示すことで免罪符を得たかのように振舞ってきた、私たちの行為がいつしか戦争の意味を自らゆがめたのでしょう。

その歪んだ平和視観は、戦争で疲れ果てた人たちにとって必要なものだったのかもしれませんが、戦争の形はどんどん進化を続ける今では、なおさら戦争の全容は見えにくくなっており、実感がわきにくくされています。

 

大人でさえその状態ですから、子どもに至っては戦争を見えにくくするする教育は、性教育を卑しき知識としてまっとうに教えて来なかった、大人の偽善と同様に社会問題の傷を広げる結果でしかありませんでした。

何時の子どもたちも、世間知らずで前向きな眼しか持っていませんので、大人のいかような偏見も悪も受け入れていきますが、その結果大人が彼らに支えられる時代になった時、彼らは何をしてくるでしょうか。

 

私達は「兵隊さん、ありがとう」と大人を信じて言った、名もなき子どもの言葉の重さを忘れることなく全力で彼らに応える責任は無かったでしょうか、その後にすべきは平和を単に訴えることでなく、戦争のおぞましさを正確に伝える勇気だったのかもしれません。

その事実は多くは失っていますが、今からでもその勇気をもって人生を全うする、その責任果たした時、その子供たちに感謝されるだけでなく、彼らの手厚い恩恵を受けられるのでしょうが、今の現実が遅きに期した過去の事実を隠してきた報いであることも含めて、子どもに伝えていくべきなのでしょう。