くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

カネを持つ者が貧困者を助ける仕組みって正しいの?

「重債務貧困国」という言葉をご存知の方は、けっこう国際問題に関心のある方だと思うのですが、殆ど聞く機会は少なく普段の生活に支障がないため、知らない人が多いと思います。

本題を進行するために最低限の説明をすれば、IMFという世界の金融機関によって、世界の国々は”債権国”と”債務国”に分かれますが、因みに日本は超債権国で、その真逆の国が重債務貧困国となります、これらの国は在る国から借金漬けにされている国です。

 

彼らは特別強制的に借金させられているわけでは無いので、言い方に語弊がある様にも感じられるかもしれませんが、好き好んで借金漬けになったわけでなく、国内の資金不足に善意か不善意かは別にして、一方的な利息を深く考えもしないで資金提供に飛びついた結果、自転車操業に追い込まれる結果、そのようなレッテルを貼られたのです。

こうした現実の中で、私たち日本では「貧しい子どもへの援助」という関連団体のCMの方が記憶に残っていると思いますが、その善意は彼らに届いたのか彼らは救われたのか、その結果を知ることなく善意の満足感を満たす繰り返しでした。

 

なぜこんな話をするのかと言うと、債務国・債権国という国の仕分けは、世の中がカネが流通することを前提に動いていると全員が理解しているからであり、そのしくみ自体は特別悪いものではありません。

ただ、本来人が人を助ける場合は普通お金を渡すより、モノを渡した方が簡単なハズで、カネを媒介することで善意の行方が不透明にならざるを得ず、反響が伝わらない以上善意への関心も薄れるのは仕方なしです。

 

かと言って、直接かれらにモノを手渡しできる人は限られている、つまり善意はそれ相応の境遇にならなければできない位、難易度が高い行為で多くの庶民がおいそれと出来ることでは無いにもかかわらず、その事実より善意へのイメージだけが先走りして、本来の問題や目標が見えにくくなっています。

上記の減少を身近な例で言えば、重債務貧困国=ローン債務者であり、私たちはローン会社の高利リスクにさらされる候補者となるわけで、モノ:モノなら価値は1:1であったのに、モノ:カネだと複利分1:1.1...とかになるわけで、健全に資金繰りしていても、複利で増産する仕組みを持たない人は、間違いなく目減りするわけです。

 

一部の資産家又は起業家以外の人々の多くが、気が付いたら所得が下がっているのは、この仕組みを理解しないまま消費を繰り返しているか、プラス転嫁できるほど複利の恩恵を受けていないかのどちらかで、いずれもその仕組みを無条件で認めてしまっているわけです。

複利は小数点以下であり、二倍三倍になることはあり得ませんから、些細な出費で目減りするし、これを国家レベルで資金を持ち出していたら、債権国も債務国に簡単に転嫁するのは見えています。

 

私たちは、多くがこの事実を知ることさえなく、言われた価格を複利分足して文句も言わず払っているし、その分また稼げばいいやと思ってカネの流通に協力していあるわけですが、そもそもカネってそんなに必要だったのか?を考えると、ハッキリYESと答えられる人が何人いるでしょう。

考えてみればカネとは、便宜上有形であっても本体はタダのようなもので、約束事さえ成立していればどうにもなるし、突き詰めれば人の労力さえあれば、物々交換で社会は成立できたかもしれないのです。

 

無償で労働を提供し対価に生産物を受け取る、これが究極の善意であり信用でしょうし、そのほうが見えやすく伝わりやすかったはずですが、現実はそうならなかったし変えようにもほぼ不可能です。

ただ、それが解っていても書きたくなるのは、人が生きている以上それを人が補いながらしか生きられないという事実を、自分からカネによって分かりにくくする愚かさを持たないようにしたいと思うし、過度にカネに依存することが正義のような行動を自重する意識付けには、大事な気づきだと思ったからです。

 

その意識が「ささいなこと」かもしれないし「無駄なあがき」かもしれませんが、カネが無くとも出来ることが、今でも沢山あることを何度でも考える機会を持つことは、有意義だと考えますし、それこそが心からの助け合いや感謝につながるのではないかと言う気がします。

再三ですが、今に生きる私たちはカネを使わずしては生きられませんが、ただ行きたい人がたまたま貧しいだけで生きられないのは、カネの仕組みが社会そのものの仕組みと不可分になってしまった結果だという事実も解っておくべきだと考えます。