くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋発進 まちおこしに求められる情報を、幅広い時事から考える。

正しい情報教育が、地域のカスタマーアクションによって市場を育てる

前回、メディア企業の匙加減ひとつで情報の価値や事実が変わってしまう現実を、理解した上で正しい情報選択への教育が必要だと申し上げましたが、国内が人の行動の錯乱によって市場が冷えつつあるのは、情報の偏重や制限にあると地方の人はそろそろ気づき出している中で、正しい情報選択のための教育とはどのようなものか考えてみましょう。

 地方のあるべき姿と意味を、都会の存在をわざわざ意識するより、身近にある多くのチャンスを見つけるのに、時間を割く傾向が今後より重要になりますが、それは従来の中央主体式よりも、日本全体にとって有益な行動ではないでしょうか。

 

それが解っているにもかかわらず、地方の人々にとって中央主体の情報が無益だと意識するために、その情報に含まれる大都市有益性バイアスを排除するスキルが必要になってきます。

そもそも日本は、歴史的に統一したのは天皇であっても、政治・行政的に統一できたのは徳川幕府と見るのが妥当ですが、その江戸時代であっても地方に年貢など徴税の役はあっても、自治は基本自己責任制でしたので、首都江戸の経済が潤うには同時に地方の経済活性が大前提であったはずです。

 

そういった過去に気づき上げた先祖たちの知恵や工夫を、明治時代以降、致命的には連合国軍に敗退して以降その多くを破棄・使用禁止されているという歴史事実を、私たちは民主主義の普及を前提としたはずの学校教育では、何ら学んでいません。

こうした事実は、筆者の様な近代史マニアか、歴史を改めて独学した人でなければ知らない情報ですかもしれませんが、いったん知ってしまえば日本の教育が、どれほど曖昧で限定的なものだったかという、ショックや戸惑いを隠せないでしょう。

 

この手の話は、挙げたら切がありませんし、たとえ一つだったとしても日本国民にとって不正確な事実を公的な教科書で知らされないのは、あまりにも不誠実すぎですよね。

この問題を解決するのは、結論から言えば一例として、地方単位でネットに歴史や生活コミュニティを共有化することが現実的ですが、こ管理責任は各地域関係者の連帯責任によって、掲載は複数の合意によってされるという試みは、教育情報共有の可能性が見えないでしょうか。

 

 さて、国内で共有すべき歴史と、それから見出される知恵には、その地域独自の課題解決や、災害情報・有益な生活の知恵があり、そしてそれを考慮した地域の可能性と世界へ広げるための戦略を組み立てる、基礎情報になります。

その基礎情報とは、地域の人々の行動の傾向であり、その行動を正確につかんで初めて地域の市場を理解できたことになりますし、そこに他地域や都市部の市場傾向は、比較にはなっても主になる意味は無いはずです。

 

そもそも、政治行政の中心が首都にあっても、単なる便宜上の都合で在りそれが同時に地方の政治行政と同じである必要は無いはずで、この事実は中央統治のための都合でしかなく、責任の大半は結局地方が負っているのが現状です。

あからさまに中央統治の制度に抗う必要もないですが、異なる事実にあっては独自の市場調査に基づいて行動すれば良かったものを、政治的な中央忖度の介入が単純で済んだ行動を複雑、かつ動きにくいものにしてしまっていただけなのですから、地方行政は素直にその行動の改善をすれば良いだけのことです。

 

これまでは一部の地方の人に〇〇先生とあがめることで、多少のうまみはあったかもしれませんが、今ではその多くは淘汰されていますので、すでにそこにしがみつくメリットは地方の住民には在りません。

よって、今後の私たちが即行動すべきは、主体責任は中央にあるにしても、地方による教育や地方による市場調査、そしてその結実が地方の自己責任を負った自治であり、バランスの取れる責任を伴った自由な采配は、世界人材の受け入れや世界市場への挑戦には、当たり前であるという自覚が必要なのです。

 

情報の真偽の判定は、こうした正しくあるべき地方の姿に対し、あまりにも不利益な意見を言ったり、その実現を伸ばそうとする者からの情報だと、まず知っておくことが大事ですが、それを中央に求めるのは本来無理があったのです。

政府に対し「鳴かぬなら鳴くまで待とう」から「鳴かせて見せよう」という地方住民の姿勢の変化が、今後地方を大きく豊かな方向へ向かわせる第一歩になり、その反響は都市生活にこだわらなくなった市民をも注目させるきっかけにさせるものではないでしょうか、そしてその第一歩を肩ひじ張らずに、出来ることから気軽に始めればよいだけのことです。