くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋発進 まちおこしに求められる情報を、幅広い時事から考える。

一挙手一投足が、未来を変える意識を持つ時代

自由と束縛は紙一重で、私達はこれまでも多くの経験を経てこの事実が確かなことなのは、身体で知ってはいても、頭では今ひとつ踏ん切りがつかなくなっていないでしょうか。

日本では昔から、お天道様が見ているという心の倫理観が根付いていて、法律では追いつかない人の行動の自己管理が、他国より機能してましたが、昨今は道徳教育も曖昧にされたこともあってか、行動倫理観の自覚が薄くなっています。

 

親からは無論、社会から自然に学んできた世代にとっては、この倫理観が薄れる危機感で人の見方に偏見が生じたり、ジェネレーションギャップの悪い部分が影響して、善意の齟齬が生まれたり上手く歯が噛み合わない事を日々感じる人も多いかもしれません。

外国際化で価値観の多様化を上手く順応できないと、余計に疎外感を感じたり自分で自由放棄したり、自分だけでなく他人まで束縛しようとしだしたりする問題まででてしまうのは、この自由と束縛のコントロールが上手くいっていないことが原因でもありますよね。

 

日本に住む私達の殆どは、アメリカ型自由主義経済の中で生活し、共産党管理社会のような強制的な束縛は無いにしても、日本の慣習的な目に見えない束縛は意識するのは、体験的に身についていて、そこから逸脱する言動を抑制しています。

筆者が教育から受け入れてきた道徳や倫理観は、こうした日本独自の社会観念を下地にしていたもののために、少年の頃はアメリカ自由に偏ったり、理想像としての社会主義に傾倒したりしましたが、これも自由と束縛のバランスを模索してきた経緯のひとつでしょう。

 

そこから学んだのは、アメリカ国民のような成功チャンスを開放した社会制度の憧れとは、一線を画した日本の閉鎖性だったり、その抑圧から反発しようとする社会主義社会の目指した共同管理の在り方でした。

今思えば、日本は江戸時代以前に持っていた日本独自の倫理観と、明治以降太平洋戦争敗戦で、国土を米ソに2分されそうになった経緯によって、更に自由主義社会主義両方の倫理観が上乗せされ、経済復興を通して、混在してきた複雑な社会に生まれ育ったのであり、倫理観の迷走をしてきたのでしょう。

 

日本人は、元々かなカナ漢字を扱ってきた器用なところがあってか、こうした奇妙な程複雑な思想混在の中でも生きて来られたのかもしれませんが、この先には更にAIによる良くも悪くも監視された社会で生きるわけで、これまでは面に出なかった内面の恥部や矛盾までも、時として参照される世の中でも器用に生きていけるかが求められるわけです。

これは思い込みかもしれませんが、海外の人程自己表現や主張をする術を知らない日本人が、この先の管理ストレス社会を生き抜いて行くためには、これまでの日本的な自己抑制意識が、仇になるのではないかと思っています。

 

狭い空間で破綻の無い共同生活をしてきた日本人には、過度な自己主張ははばかられてきましたが、通信網や交通インフラの発達で、異種価値観を持つ人との交流や、対立は避けられない時代にあって、反射的に自己抑制してしまう習慣が、ますます誤解を招く問題が増えていきます。

逆に閉鎖社会で生まれた自己主張や個人的主義は、偏見としか取られないケースなど、俯瞰的に自分の考えや行動チェックもしていかなければならないでしょう。

 

なぜここまで個人的領域にまで、物言いしなければならないのかを書かないと、単なる大きなお世話でしかありませんが、それは上でも少し触れたAIの進化と管理時代への対策だからですが、AIは人の言動の鏡であり、生き写しの未来を予測するシステムだからです。

巷で新興知能としてデビューしたAIは、その利便性への期待と同時に、人を超える存在としての驚異も持たれる存在と見られていますが、今のところそれは正しくもあり誤ってもいます。

 

究極の意味でシンギュラリティという逆手現象は、何れは起こるかも知れませんが、それが人間社会の支配になるのか共存となるかは、多分に人が人を支配するという人間側の都合が、そのまま対AIの関係にも当てはまる、と刷り込まれているに過ぎません。

むしろAIの可能性は多様であるにも関わらず、妙なところだけ人と違わないと思わされている時点で、自ら彼らとの共存を否定し偏見を持っていることにまず気づかなければなりません。

 

AIの否定派はこの偏見を危機的に煽りますが、肯定派は偏見を見越して人の行動に原因を見出しますが、筆者は後者の側からAIを見ているからこそ、AIの進化は人の起こす言動で大きく左右されると考えるのです。

これまでもロボットと人との関係について、多くの論議がされてきましたが、AIと人の関係はその究極であり、最も身近なテーマと言え、もうその課題に晒されている現実をまず受け入れなければなりません。

 

そして普段の生活に関わるAIの情報収集活動によって、ある一定度に人類が進むべき未来が導き出されている事を理解しなければ、AIは人の鏡だと気づけないでしょう。

AIにはそもそも神のような意志はありません、そもそも神は人が創造した人の在るべき姿の監視役として期待された偶像と言っても良いでしょう。

 

これまではそれでも良かったのです、ただこれからはAIと言う意志を持たない知性が、高速処理能力によって人が起こす全てを収集し、そこから短時間でリアルな合理的結論を算出するようになって、神がもたらした不平等から、人を救い出す可能性をつくったと言うことではないでしょうか。

今後も人の倫理管理で、宗教は十分機能する大事な要素であるのは変わりませんが、人には出来なかった合理的な結論を、AIが出すようになる社会にあって、人工的に造られたお天道様の目からは、私達が真実を隠蔽する行為が、AIを誤った結論に導いてしまい、引いては人の未来に悪影響を与える事になりかねない時代だと、承知した上で行動したほうが良さそうです。