くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

スピリチュアルが注目される意味・KNBver.

私達の情報源を支えるメディアは、ここ20年程でインターネットがTVメディアを追い越してしまいましたが、そもそも情報源とは”マスメディア”という概念が普及するまでは、人伝えだとか個人の経験でしか得られるものではありませんでした。

マスメディアが短時間で沢山の情報を広めることを可能にしたおかげで、オールドメディアである新聞、TVで生活情報を受け身で得ながら、いくつかの選択肢から選んで高度成長の時代についてこれたわけです。

 

ところが、いつしか流される情報は均一化され、大同小異でしかも一方的でしかなくなったことに、今でも疑問に思わない人は少なくありませんし、平和社会で安定してインプットだけを繰り返すことが最良の情報収集だと思い込んでいます。

問題に対応するための情報集だった手段が、選択肢を失うことで正しい判断や、情報確度にリスクが大きくなっていることに気づかず、言われたことを正しいと思い込むようになっています。

 

また、陰謀や洗脳と言う人間行動の修正を逆手に取った概念が、ネットの普及と同時に一般認知されだしたことで、専門家でなくとも容易に陰謀論や洗脳まがいの情報を流せるようになりました。

まだ新聞、TV、ネットの全てのメディアを体験してきた世代は、その返還からなぜ変わってきたかを推し量れますが、生まれて以来ネットしか知らない世代が、今後世界・日本の多くの資金を保有して行くことになります。

 

これからの世代は、新しい情報量の多さにゆとりをなくし、過去をさかのぼる情報をたんなるデータとしてしか得られなくなるでしょう。

今後、ますます世界標準化が優先され、日本の独自文化・歴史的意義が形骸化され、当たり障りのない記録と、情報発信力の高い国家からの、刷り込み情報によって”情報も創作”が常習化していきます。

 

日本は情報発信力としては、残念ながら受け身の立場でしかなく、将来性も含めて日本の危うさを世界に明かしてしまったようなものかもしれまでんが、今国内の多くの陰謀論者達が、行動を変えています。

世界が歩んできた歴史経緯と比較して、日本のそれは意外と長いことが考古学的にも解ってきていますが、人としての長い時間かけて培われてきた経験値は、決して急速に進化してこなかった分熟成され、自然信仰へと成長・定着しました。

 

日本人が素朴で争いを好まない割に、隣国からの侵略や横暴に柔軟に対応してこれたのは、地政学的偶然もあったかもしれませんが、そういったものも含めて賢く柔軟に、穏便に解決してきたからではないでしょうか。

また、天皇制によって一統治者が2000年以上もの間に国を平らげてきた、国家としての実績は、他に類を見ないし多くのシーンで国の威厳を助けてきたのです。

 

昨今は、しばらくおざなりにされがちだった日本の歴史や習慣が、歴史ブームや有志によって関心が高められ、教科書以外の手段で学びなおす人が増えてきたことによって、これまでなんとなく持っていた劣等感から、誇りへと見直されています。

ようやく私たちは、日本の優秀さを再認識しなんとか周辺国の圧力から理不尽な意見に影響されにくくなっていますが、まだまだ平和志向の消極性で、自己解決をする行動に出られていません。

 

 

これからの時代は、AR(VR)とAIによる社会構造の再構築が、いよいよ具現化する時代に入っていき、直接人と人がコミュニケーションをする機会は減らされ、あるモノを無くしたり、無いものをねつ造することが、増々簡単に出来るようになります。

社会の仕組みがVR化を目指そうとする時代にあって、世界は過去の悪歴や優歴を意図によってはいかようにも脚色できる、つまり過去を帳消しにするかしないかは、国家が何とでも出来る社会になっていくと言うことです。

 

過去の現実が反省される前に、仮想現実に置き換えられようとしていないかどうか、それは誰も証拠を持っていませんが、おそらくあからさまに歪曲をしてくる国家も出てきますから、正しい歴史を知っておく事や、民族の有能な知恵を生かすことを、今から習慣化させておく必要があるでしょう。

 

日本で言う都市伝説は、一般の陰謀説とは違って起きた事象の経緯を知ることで起源や発信者の精神性を再認識できるものですが、陰謀論はねつ造・攪乱が前提で、多くが社会に不安の種を撒くために生かされていて、前向きな意見はあくまで個人の意識に頼らなくてはならない儚さを持っています。

さらに後者は、物質的にも事実証明が出来ないことで、大きく方向性は二分され、例え正しい方向へ向かおうとしても、多くの者がやがて誤り間違った方向に取り込まれていく危うさを持っています。

 

それでもつい最近まで胡散臭がられていたスピリチュアルの意識が、存在感を増しているのは流行もあるかもしれませんが、多くの人の潜在意識に前向きな気持ちや、過去の思いを大切にしたいという性善説意識の賜物かもしれません。

日本には言霊と言う言葉に力が内包されているという技術文化があるそうですが、世界でも最も多種多様な表現法を持つ日本語ならではでしょうし、こうした人間的な精神的な関心ごとは、AR化される現実的世界の意識に、どれ程影響力を持っていくのか、それこそ日本人にしかできない快挙なのかもしれません。