くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋発進 まちおこしに求められる情報を、幅広い時事から考える。

今だから引き締めたい、平和である事が故の建前と現実

この春の最大の恒例イベントとなるはずの、卒業式や終業式、もしかしたら入学式もお蔵入りとなりかねない勢いの、ウイルスショックと言われる驚異によって、未来を担う子どもたちに大きな心のキズを残すことになりました。

当人は基より苦労して育てている親御さんなどのご家族にとって、これほどの仕打ちは計り知れない衝撃となったことでしょう、下の引用記事はそれを示しています。

 

toyokeizai.net

臨時休校「一生の思い出」奪われた子たちの本音 | コロナショックの大波紋 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

本題に入る前にこの記事を書くきっかけになった、些細な実体験をあげておきます。

今日外出からの帰り道の交差点で、交通ルールを老人に強く諫められ、筆者も諭そうとした直後、点滅し始めた信号に話を絶って渡れましたが、その人だけ横断歩道を渡り損ねたようです。

筆者は冷静に目上に意見を大人しく聞いて謝るべきだったかもしれません、先方もおしきせの主観とは言え頑固に拘り感情的な面を露わにした結果ですが、これも建前を主張する以上に現実を見落とさないためには、一時的な感情によって得られるものは何もないと学んだ、反面教師として晒しておきます。

 

言うは易し行うは難しということでしょうか、偉そうなことを書いている割には、なかなか実行が伴っていない現実を、あえて晒したうえで今回は書き始めますが、明らかにマイナス面の方が大きいかもしれませんね。

ただそう思いながらも敢えてそうするのは、これから書こうとすることを建前と捉えるだけに終わらないように、目まぐるしく変化して取り残されそうになる現実の中で、実行できなければ意味がないからです。

 

だれでも、この程度の体験は日常茶飯事にあると思いますが、かならず行動に完全を示す必要は無く、学ぶことを次に生かせればそれでよいと思っています。

中には、人に対しては完全をやたらと要求する人が居ますが、その一人の偏った完全主義者によって、本来求められる多くの前向きな行動の意識だけが、犠牲になっていくのは、あまりに理不尽であり本末転倒ですから、できもしない完全へのこだわりは、しないさせないという行動が大事でしょう。

 

 

さて本題ですが、この記事の指摘もあるように、政府の対応の遅れが原因だと言われる事が多いですが、これはほぼ大半の人の判断する通り、否定されないだろうし擁護の余地はなく、おそらく事が収まった後に、現政府には責任をとってもらうのは避けられないでしょう。

つまり、なぜ政府があえて判断を遅らせたのかの根拠が、今更に説明された事実が、多くの国民や企業の独自判断を鈍らせ、結果的に経済擁護に走った政府この意図に悪影響を及ぼしたのも事実で、リスクへの責任逃れの体質が浮き彫りにされたということです。

 

一方で、私たちも戦争の直接影響下に置かれなくなった社会環境を得た反面、ストレートに言えば平和ボケによる、平時を覆された際のサバイバル対応力にも、問題が露呈している事実を行動によって示しておく必要に迫られています。

そもそも戦争と平和の転換が、自然災害とは違い突発的に起きるものではなく、人為的に起こせるリスクである現実を、改めて認識しておく必要があって、つまり天災よりも予測がしやすいことを知った上で、経済的な予測行動をすることが大事です。

 

今回のウイルスショックは、一見天災と認識しがちですが、上にも書いたように筆者から見て明らかに人災であり、その政府が対策遅れを起こした以上、何はともあれ個々にリスクを取らなければ仕方無いのです。

例えば70年以上前に戦争が起きたときも、国民は一部政府組織やメディアの情報統制に撹乱されたとは言え、言いなりに行動したことも、責任追及だけでは済まされない行動の問題であり、解っていても行動で示さない何かへの忖度的な悪習慣の一つです。

 

今被害者意識が先行する国内の空気の中で、こういった指摘行動は、無視されるか叩こうとするネガティブ行動の、いいカモになることを承知で書いているのですが、こういう被害者意識を正当化しやすい時期にこそ、その不安や不幸にツケこもうとする動きが、必ず出てくるから書くわけです。

このツケこみに不用心な日本人には、戦争被災者が私達後進に本来伝えたかった思いが、もしかしたら届いていないのかもしれませんし、彼らでさえ余りにすさんだ体験をしたことで、伝え方を誤っているかもしれないのです。

 

ただ犠牲者の思いが複雑で、個人やその家族の不幸への嘆きや憤りのメッセージは当然あるし、それと同時に命を絶たされた不条理の中に、生き残った人たちに託したかった切実な思いもたくさんあったことは尊重すべきです。

人間である以上は、個人の不幸を最大限減らしたいという欲求が大前提でなければ、生きる価値は無いと考えるのを否定しませんが、自身が窮地に立たされてこそ悟る「生きること」そのものの意味が、どう伝わるかで、そのコミュニティの未来は大きく方向を変えていくだけに、短絡的な先入観は捨てる必要はあるでしょう。

 

 

引き寄せの法則と言う、ある意味その生きる意味を探る処世術があるそうですが、その話を聞いたときにその実現には、他人の行動を正すこととは別に、自分の行動を正してこそ引き寄せられる何かがあると知りました。

こうした気付きに基づいた行動は、このブログで書いているテーマの根っこと合致していますから、強ち神がかった事とも思わないですし、十分説得力ある行動のヒントなのでしょうから、辛いときは毒づく事も仕方ないにしても、まずは建前からでもその実践すらしなければ、自分の周りの好転は永遠に無いのも現実です。

 

自分で行動できないリスクは、するリスクより致命的になることを、今起きている現実が示しているのだし、それに加えてお粗末な行動が果たす悪影響が、さらに行動の意思を狭めていると筆者は体験上知っています。

最後に、この事実は自分で考え行動しない人には全く響かないことかもしれないですが、その行動がどれ程の影響力を示そうが無視されようが、続けなければ未来さえ見えないのですから、それを知っても行動を止める方が安全なのでしょうか?

 

……平和は、多くの犠牲の基に得た対価として子孫が教授できる一方で、平和を過大に正当化しすぎるのは、新たな悲劇の温床になりかねないのでは無いでしょうか。

そのバランスや匙加減は難しいですが、今後ますます世界から要求される多様性によって、その価値観は大きく変わることが予想される将来に、ステレオタイプのように一方的に平和を要求するような行動が、バランスがとれているかを自分で判断しながら、世界の変化に柔軟についていくために、まずは平和の定義を省みて行動表現します。