くろま流 × NAGOYA式 ブログ

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日本が盲目的に環境問題への貢献を止めない、シンプルな理由

人間の行き過ぎを統制するのに、良くも悪くも大きな影響を与えてきた宗教は、ある説では元々起源が同一だったり、何らかの関連性があるという意見が有力ですが、AI の分析によって興味深い統計が出ていたようで、これを掴みに書きます。

この研究資料で日本は、仏教のジャンルにあてられていますが、多くの日本人が自覚しているように、仏教は宗教信仰の対象というよりも、生活習慣の便宜上仏教形式のしきたりに準じているに過ぎないことからも、この研究成果は西洋私感の匂いがプンプンしてきます。

 

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ビッグデータで定説覆る?──世界史は「神ありき」ではなかった(石田雅彦) - 個人 - Yahoo!ニュース 

 

もちろん本格的に仏教を信奉する家庭も多いのですが、同様にキリスト教や某新興宗教などの亜種も多く、日本人の信仰観はむしろ宗教とは少し違いますが、神教の方がしっくりくるのではないでしょうか。

その神教の本質は天皇が中心となって護ってきた、地域に根付いていた自然信仰の集大成的な、畏怖と共存を基本にした原始的なものだとされますが、この概念は今の日本人の環境意識に今も大きな影響力を持っています。

 

しかし、今の日本人が自他ともに環境問題意識が高いと考えているエコ意識は、世界の目線では、上の研究でも適当に仏教に分類されたり、低評価が下されるような存在でしかないようです。

また、日本人の多くが性善説を前提に考え行動していたり、素朴に善悪で判別しがちなところがありますが、海外の人々はもっと多様的に判断したり、善悪の基準も千差万別なように、環境問題の解釈が単純ではないことに気づきます。

 

私たちの多くが、無条件にエコ活動は無条件で良いことであり、積極的に参加すべきだと一貫しているのに対し、世界の識者の目線は、日本がのめり込む環境活動にとても覚めていることに、違和感を覚えます。

実際、日本が環境事業に拠出している予算や人力の多さに対し、海外はごく一部の団体に評価されていても、いつになっても思い描くようなエコ・ムーブメントは起きていない結果は、少なからずモチベーションを下げ、信じていた善行に疑問を抱く人もいるでしょう。

 

エコ活動は、日本人にとって敗戦後に世界に置き去りにされないための、一種の贖罪意識やはけ口だったと見ていますが、キリスト教イスラム教など絶対的な宗教観と贖罪を認める存在を持つ人々は、神との対話や寄付だとか慈善活動という、贖罪回避習慣を持っているので、環境問題を俯瞰的に観れているのです。

しかし日本人の多くは、戦前・戦後からの連合国の日本統括戦略の下、戦争を起こした罪と国内侵攻と原爆で多くの犠牲を払いながらも、犯罪意識を取り払え無いまま、善行への執着心が過剰に大きかったせいもあって、神教をエコ活動に置き換えてきたのかもしれません。

 

また、私たちの心に戦後代々受け継がれるのは、罪への賠償意識だったり、過度な善人として振る舞おうとする強迫観念だったように思えますが、結果列強国からの要求に甘んじたり、悪人意識を持つに至ったのは、日本人の不幸でしかありません。

そして、私達が疑わなかった環境保護の善と悪の境目は、自己の裁量には無く、常に他から指し示され盲目的に従いだけであり、その中心には欧米や中国への無意識な忖度が多分にあった現実を受け入れなければなりません。

 

私たちが盲目的に疑わず、時間やお金や労力を惜しまなかったエコ活動が、その期待した見返りを見ること無いまま今も淡々と続けられ、奇しくも国内産業の中心的指針となり、経済活性化へのスローガンになっているのですから、笑うに笑えない話です。

本来自然崇拝する神教を基にする日本人のエコ意識は、他国に誘導されるまでもなくごくごく自然な意識と行動であったものを、いつの間にかすり替えられ押し付けられる関係になった経緯と理由を、私たちは一度踏みとどまって考えるべきでしょう。

 

自然を神として敬い、その営みに抗うことなく従って生きてきた先人の教えと謙虚さは、今でも私たちの根っこに息づいているはずですが、その性善説的なポジティブさは、本来とは違った方向に費やされているのが、今の国際社会の中での現状です。

先祖の教えは、決して自然を護ることに見返りは求めず、ただただ自然のの偉大さのみにひれ伏し、従うシンプルなものであったはずですが、その意識はいつの間にか商業化され、純粋な畏怖や祈りにさえプライスが付けられるようになってしまったのは、残念ですし、盲目的な行動に至った原因は、実はとてもシンプルな理由から始まったことを特に次世代の人々は知っておくべきでしょう。