くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

サムライスピリッツと天皇制

 

 

この合言葉に物思う人は、時代劇マニア以外はそこそこ年齢を経ているひとかもしれませんが、一昔前には年末年始のお約束だった忠臣蔵を話題にする時期になってしまいました。

 

とか言う筆者も、親世代ほど心酔するほどの世代ではない中途半端さは否めませんが、若い頃にはつゆとも思わなかったのですが、今思えば学んだことは大きいと感じています。

 

周りの全てが同胞でなければ行動できないのは、国際社会にそぐわない。

同胞とはより一層協調し、そうでない者とは一定の距離をとって共存する、これは簡単ではないが、バランスの取れた日本人には本来できたことなのだ。

 

もう時代遅れかもしれないが、間もなく忠臣蔵の季節になる。

 

大石蔵之介の無念に反旗を翻すその真意には、仇討ちという一見問題視されかねない要素が見え隠れするが、仇討ちとは当時の江戸幕府が独裁では無く、血筋を公平に認める緩和策であったことを知れば、今でも多くの人が共感できるだろう。

 

サムライスピリッツだけが、日本人の美学ではないのだ。

 

謙虚に自然を神として崇め活かそうとする精神は、天皇の寛大さによって保護されてきた日本人の特性だった。

 

未だ国内に、天皇制の不平等を指摘する声はあとを絶たないが、千年以上続いた事実は、天皇の影響力が国民にとって単なる権力強制だったかを疑問視させるには十分な根拠にならないだろうか。

 

権力の執行者は、時には幕府であり、政府だったが、彼らでさえその天皇の存在を何一つ侵そうとしてこなかったのはなぜなのか。

 

この答えは、外部から入ってきた最新の理論であっても、科学であっても解明されるものではない、むしろそれらは私達から適切な判断力に逆行する役割しか持ってこなかったのではないか。

 

その疑問は合理的に考えても解る通り、他国にとってその正しい答えが驚異でしか無く、無益なものでしかないことからすれば当たり前のこと。

それをそのままありがたがる姿に、不自然さがあって、日本人の本質を考えるとき混乱をもたらす事になった。

 

では、私達はどうすべきだろう?

 

決して筆者は宗教信者でないし、むしろ積極的に排除する者だが、そんな無機質な人間であっても、日本人に生まれた以上その意味と結論にこだわらずに、世界を渡りあえる自信が持てないのだ。

 

人は本来からして独立しているはずだが、しかし独立を証明するために自分の立ち位置を証明しなければ、独立性は認めてもらえない。

その現実がある以上、天皇制の養護の元で生きる日本人の可能性と、存在意義を問い続け無ければならないと、考える。