くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

税金を使った展示公開が不自由と表現される確かな理由

 何度もブログで書いていることの反復になりますが、今回のような表現であったり、SNS炎上などで問題化する主張の「自由」を未だ大きく誤った、もしくは偏った解釈をされている人が多いようです。

以下の識者の方も危うい表現を文面に散りばめられているようですが、このような小難しい書き方をする場合、多くがはっきり主張きない真意を、ただただ遠回しに表現しているのでしょう。

 

president.jp

税金を使った美術展は「不自由」でも仕方ないか 「展示の意義」はしっかり説明すべき | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

 

これだけ自由の意味を都合によって価値観の多様性とは言えいじりまくる向きが耐えないのは、ある意味その保証されるべき多様性の会社の拡大化にほかなりませんが、自由に関して言えることはハッキリしていて、自由=責任という等式は変えられないという事実です。

同時に多様性は拡張の広義も持ちますが、それより優先すべきは個人が他者に持つ許容量でなくてはならないはずですが、上の記事意見などはその許容量を一定の志向に誘導するために注ぐべきだと論じているように見えます。

 

加えて許容とは個人的裁量にはなりますが、あくまで個人の包容力を高めるための便宜上の処方箋でしかないはずなのに、個人的なメリットでは、

「あったほうが気が楽」でしかなくて「権利のように要求する」ものではありませんので、多様性の使いみちはこの点でも誤解されているようです。

 

世の中が共産主義のような単一思想への方向に集中させて生産性を保つ社会とは違って、私達が過ごす自由を掲げられる個人資本を基に循環する社会では、自由と責任で責任がぼかされることが往々にして見られますが、その分表面上共産主義自由社会に存在できるような誤解を生む温床になっていますが、現実はその自由は認められないものです。

情報化社会になって以来、世界は狭くなって来たことも起因して、せまい社会の共産主義者が自由世界にあぶれだすのは成り行き上防げないのですが、その現実はあっても自由社会の範疇で活動する共産主義者の自由は、彼らが主張する程は、自由ではない現実似、いらだち様々な問題を起こして混乱と略奪を正当化したり、入植による混在化で既成事実化を進めているのかもしれません。

 

いずれにしても、私達は同じ国土の中に他の国で作られた考えを支持する外国人や日本人を抱え、自由に活動を認めてしまっている以上は、この自由には本来の解釈に準じて義務を課すべき時期として遅きに逸しているのは間違いありません。

 

日本が本来持つ誇りと、優れた特性に意見しややもすれば消極化さえいとわない活動や思想には当然のように義務を加えなければ、ますます今後彼らの自由をより拡大解釈させ、危うき妄想の手助けをする悲劇にも繋がりかねない今、私達の自由に対する責任はますます重くなることでしょう。