くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

自国を示す誇りと行動力は、愛国心の表現

 台湾の人々が、「台湾(中華民国)」の代表として、来年開催される東京オリンピックに参加したいという思いの中には、日本人が目指すオリンピックへの思いとは、何が同じでどこが違うのでしょうか。

今こそ日本は、世界でも屈指の発展国の地位を築いた事実はあるのしても、未だ欧米優位の秩序劣勢であるアジア諸国の一国だったり、敗戦国ゆえのアメリカ属国として評価され、中国韓国からも謂れのない戦争犯罪の賠償を求められるなど、形は異なれど政治的文化的に劣勢を強いられる現実は健在で、中国からの台湾のそれと共通する姿を見出せるように、さまざまな解釈がされる愛国心を、私たちはどう考えたら良いかを考えます。

 

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オリンピックに「台湾」の名称での参加を実現したい | ザ・リバティweb

 

 

そもそも歴史的に日本の近隣国への貿易や統治のやり方は、一貫して西洋圏のそれとは目的を異にしてきたことを、あまり国内外含めて知られていない気もしますが、明らかに異なると言えるのは、日本が他国に出向く意図が、その征服であったり侵略であったりする機会はほぼなかったことであり歴史がそれを示しています。(ただ各国の都合でによっては解釈が異なりますが)

それゆえ、国境が陸続きで侵略が当たり前だった他国の事情と異なったこともあって、彼らゆえの「当たり前」を日本も強いられその道理で裁かれた経緯は、止む無しののところがあったのかもしれません。

 

ただ、日本がその事実を受け止めながらも、くさらず世界のそれらと同調しようとする姿勢は、私たちでなくとも評価されても良いとは思っていますし、他国でも同様の扱いを受ける国には、惜しみない手をさしのべてきたことを考えると、その姿を評価するものと、それを煙たがるものが出ているのは、何を意味しているのでしょうか。

お隣の大国である中国が中華思想の元、天下にそんざいするもの全てが我が国の所有物であるという荒唐無稽な思想を正当化しようとする「力の支配」と、アメリカが展開する「マネーの支配」とが今まさにぶつかっています。

 

大国ゆえ実行できる力技でしか世界を統治できないのは、人の知恵浅さを比喩していますが、日本が目指す共存の世界は所詮「子供の夢」のように儚いものなんでしょうか?

筆者は社会人になりたての頃、自由な主張を許された会社の朝礼で「みんなが手を繋いで生きられる社会」について発表したところ、見事一笑にふされたことがありましたが、自由とはいえ社風もわきまえないテーマを一蹴されたとは言え、そこに理不尽な多様性を否定する現実を感じたことがありました。

 

日本では独特の「空気を読む」慣習が根付いていますが、良く働けば「相手を慮る」ことになり、その逆に働けば「忖度をしいる」ことになるという二面性を持っていて、そのさじ加減は当の日本人でさえ大きな使い間違いをするほど曖昧でご都合主義な考えでもあります。

今までは対外的に「玉虫色」の習慣が機能していたことも好機に繋がったかもしれませんが、海外から見れば「優柔不断」な行動は、余計な誤解を生み正しい行いさえ都合よく曲解される難問題を作り上げてしまいました。

 

相手を慮ることは悪いことではありませんが、都合よく忖度されていると解釈もされるなどの二面性を、私たちは少なくとも海外の機会ではしっかり使い分けるかしないことが、これからの世界における日本の立場を二分させます。

私たちの思いは、行動の結果で十分伝わることはわかっていますので、その場の都合で曖昧な反応は避けたほうが、国際社会人としては賢明かもしれないし、戦後から連合国によって仮設された憲法9条への、自国として決別を示す重要な時期でもあり、世界へ明確な立場を示して今ねばなりませんが、その結果が近くはアジアを牽引するかされるかの分岐点にもなるということです。

 

さて、立場を隣国台湾で考えると、彼らが目指すアイデンティティの主張が、今後どのように自己実現するかは誰も予測できませんが、決して他人事に思えないのは筆者だけではないと思うのです。

露骨に強調して、中国との関係を危うくするのは避けたいと思うのは一理ありますし、社会人として懸命でないかもしれませんが、一方で彼らから愛国心の表現やアイデンティティ自己実現は、けっして曖昧模糊な行動では決して示せないという現実も、教えられている気もするのです。