校則で分かれる世代差を、そろそろなんとかしようか
今回は、校則の話題ですが筆者の世代は「校則違反」は不良の代名詞のような認識が親子ともにあって、社会枠から外れたく無い人が圧倒的でしたが、ここ十年来というか平成時代から校則の再認識が試みられるようになったり、校則の見直しも避けられなくなって来てますよね。
もちろんこの傾向が不良化ではなく、グローバル化の意識が根付き出したことで、国内独自の一般常識の見直しが本格化したためであり、当時からマイノリティだった画一的な常識論が市民権をえてきた表れです。
その意味で当時の不良のなかでも、必ずしも悪でなかった者が不当に悪者とされた時代から、個人の見解が共有され多様性を持つに至って、それを良しとしない識者の影響力から自由になりつつある事実を意味します。
だからといって教育に着くリアル世代にあっても、未だ民意である生徒たちの生の意見は固定化する識者によって選別され、ある一定の選別を避けられていませんが、今後の変化の激しい時代に向けて、自分の身の回りのルールは自分たちで責任を持って作り運営するくらいの責任感と実行力は、未成年といえど要求されても良いのではないでしょうか。
「女子はスカートしか履いちゃいけない」校則は違憲。学校を訴えた女子生徒が勝訴する | ハフポスト
当然それによって起こる良い効果と合わせて、万が一の悪い結果に対して大人が尻拭いするのは避けられませんが、大人より純粋な目を持つ子どもの、最も最大公約数の才能を期待するならば、そのくらいのリスクは大人の常識的な責任範疇になってもやむを得ない、そのくらいの意識改革が大人たちへも向けられていないでしょうか。
日本では、昔から「子宝」が地域の祭りごとにされ、それぞれ地域独自の神事が受け継がれてきた通り、古くから子は個人の財産というよりクニの宝とされた文化は、いま少子化の時代にあって現代風に再認識される風潮が出だしたのは、とても良い傾向です。
こうした時代背景の中で、根本的な子ども環境の総入れ替えを実施しようということではありませんし、まずは国が国内の子どもたちに対して親の目線を代弁しながら、国の宝を育てる目線を、よく見直して指針を改めるのはそれとして、私たち大人は子どもの環境改善の上で、まずは校則の見直しという身近な機会から、国の努力とは独立して働きかけ「上からと下から」同時に見直すべきかもしれません。
今までは、上からの一方的な力関係に依存せざるを得なかった空気が、校則の一方的な押し付けから変わり出している改善への行動力は、かつて謂れなき不良たちの礎の上に大きな第一歩を踏み出したと意識できる時代を市民から作っていく。
それが、私たちの生活に対して最大公約数の恩恵を与える、重要な下地になっていくのでしょうね。