くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

市街地での保育園増設は、なぜ頓挫する?

以前世田谷区で起きた、住宅地域にへの保育園建設の意見の相違について記事りましたが、そのトラブルの背景にある複雑な事情が、比較的まとまった記事を見つけたので、シェアします。

こうした問題に限らない日本で知られる国内外の問題解決には、共通のハードルがあるのかもしれません。

 

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「保育園」がこんなにも建てられない根本理由 | 不動産 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

 

なぜ「保育園」増設がここまで複雑怪奇になったのか、考え方は下記に出題されている原因にあるのかも知れません。

 

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「PDCAを回せない人」が犯している3大失敗 | 30代から身につけたいキャリア力実戦講座 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

それぞれの立場の関係者が、問題を「より複雑に考えてしまう」「問題をさらに問題として分析してしまう」という、本末転倒な悲劇が現場で起きているのでしょう。

本来、この問題に限らず問題の解決プロセスは、考えることでより単純化し明確にしていくのが目的ですが、その初期段階で必要な資料準備や意見リサーチ、原因・可能性の洗い出しの際、その収集そのもが仕事になっていたり、その収集時間に見合った討議時間が犠牲になっているために、浅い結論に始終しいつしか結論ありきというより経過ばかりが重要視される悪循環が原因のように見えます。

 

このプロセスは、役所や自治体がするものなので、その原因としてよく言われる不動のタテ社会とか、複雑なヨコ社会的な組織構造が問題だと、一般的に言われるものの、それ以上積極的な分析が進まない以上、進展する余地はないでしょう。

選挙でそれらしい「公約」を掲げいざ当選した議員も、タテ組織の上部に組み込まれるわけですから、下部の問題が見えにくく立場上イジリにくくもなって、ますます見えにくくする一端を担ぐことになる。

 

こうした複雑化のロジックは、家を建てるのに例えれば「現場監督」にあたる、常に第三者目線で見る監視役が望ましいのですが、おそらく当選した議員はその役割を果たせない、何かがあるのでしょう。

こうした悪循環が止まらないのを見るにつけ、有権者が選挙に参加しなくなるのも無理はないかもしれませんが、有権者さえ監視を放棄したら、もう利権や私欲し放題の修羅場になりかねませんね。

 

 私たちは、選挙ごとに立候補者の「嘘誠」を見抜き、一歩でも改善が進むように投票するしかないのです。

話を本題に戻すと、情報過多の時代にあってこうした本末転倒な誤りは、情報の質より量に価値観を認めているかぎり、解決しないし誰もが陥るトラップですから、誰が悪いだのを曖昧な情報だけで判断する前に、一人一人がどれだけ質にこだわって量に溺れないようにするか次第ですし、私たちが「流される」以上は改善されないのでしょう。

 

加えて、公共の課題に立場によって様々ですが、私欲や個人の損得を優先させる者の意見が強いのも気になります。

こうした公共問題にバイアスになる意見に対し、私たちは本来排除しなければならないですが、逆に消極的で「穏便にはかる」傾向が強い様ですから「ごね得」の習慣が根付いてしまっている世相に対して、それぞれが猛反省と行動を正す態度も、残念ながら必要のようです。

 

 こうしたバイアスに対して、明確な目的に常に沿った物言いを徹底するしかないのですが出来ない、例えばK国とのトラブルなどもその行動の曖昧さや、自己主張の苦手意識が影響していたり、つまるところ「考えの異なる相手」の対処の不慣れさゆえの行動の曖昧さが招いていることを自覚する必要があります。

 それは、国内での議論にも現れ、曖昧さが組織の明確なプロセス解決を複雑にしていて、より第三者的な目線で解決すべきが出来ていないということなのでしょう。

 

話は少しそれますが、最近ニュース番組でもネットでも、「過激」なまでに極論を訴える指揮者が注目され人気もあるようで、つまりこの流行は「言ったもんが正当化される」わかりやすい証明とも言えます。

筆者も含めてかもしれませんが言わないことを担保し、彼らが「言えない」本音を代弁してくれるのが受けているのでしょうが、結局公共問題は「妥協」して進むものなので、「言えない」は論外で「言わない」「言わせない」というリスクを乗り越えて言わなければならないし、当事者に当たるのなら尚更それに慣れないと生き残れなくなる、それが過去現在未来の日本の事実ですし、それにどう行動するかが社会というよりも個人の課題なのでしょう。