くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

年長者を敬う習慣と高齢化社会

日本に限って言えば、この国は中国由来の「道徳」思想が普及していて、高齢者は目上の人として「敬う」「従う」という発想が一般的ですが、筆者の世代以上はもとよりとしても、道徳教育を受けない世代の是非はあるとしても、単に年長者が最優先される考え方には、いくつかのリスクが問われるようになっているようです。

たとえば著名な投資家や企業経営者などからは、企業経営においては企業トップの高齢化は歓迎されないばかりか、リスクになるという意見が出ているのを見て、このリスクについて考え直さなければならない時期にあるのかもしれません。

 

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日本を滅ぼす「GG資本主義」という病気 | 投資 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

記事を読んだ上では、自営以外で雇用で働くビジネスマンにとっては、うなずけるところもあるでしょうが、本来日本ではキャリアを重んじて、長く働いている人こそが有利になっていた時代から、実力主義や成果重視にシフトが進み、年齢は労働者のスキル判定において軽視されつつあるようです。

これは、企業経営において儒教的なキャリア重視の東洋型から、欧米型の実績重視で合理的な資本経営へと、日本もかじを切っている過渡期だからこそなんでしょう。

 

今までは道徳観からして低頭徹尾守られてきたように思いますが、筆者のような道徳教育を受けた世代には全く違和感がないだけにこうした考えは斬新ではあり、同世代識者からの指摘は刺激的でさえあります。

私たちは歳を経る間に、若い世代や時代・流行とのギャップを感じるよになっていきますし、それは誰でも避けられないものですが、一方で近年になって情報過多の時代が始まったことで、ある意味追い込まれている錯覚を覚えるようになっています。

 

その気になればいつでも好きなだけ欲しい情報が手に入る時代にあって、歳を経るたびにその収集力は衰え、その手段は進化していって追いつかなくなるのですから当然です。

その世代が少なくとも日本では未来を左右するはずの選択権は、次世代に譲ろうとしない社会は、そうでない社会と比べて競争力に歪みが出ても何らおかしくはないということですので、記事にある危機感はもっともでしょう。

 

日本は戦国時代以来、新陳代謝にひつような「下克上」を禁止して以来その最大のリスクに目をそらしてきたことで、情報社会のメリットを自ら手放しているのかもしれません。

生きることを保証された社会は、その分進化の速度を弱めざるを得ませんし、時間がかかる課題を最優先するばかりか、解決しないと先に進めないという深刻な問題を課しているという自覚が、ようやく先を見直そうとしている識者から指摘し始められたということです。

 

その一方で救いなのは、こうしたグローバルな視点を持った識者が注目されることが増えたことで、確実に理解されたものから徐々に行動が変わっているという朗報も感じられることです。

あとは、道徳観を理由に私惑をわざと変えない高齢者の慣習をどう変えていけるかを、その思惑が受け継がれる前に変えていけるかが課題でしょう。

 

外国人なら「レジスタンス」や「戦争」で簡単にひっくり返そうとすることを、日本人は「下克上」を放棄した時点から、平和裡に変える歴史を継続していますが、この課題は可能な限り従来通りの方法で行うミッションと見なければなりません。

おそらく前者のような方法を取れたとしても、海外のようにそう簡単には日本人の心の中や性根は、そう簡単に変わるものではないからです。

 

 

日本人が、長い歴史の中で選んで実施してきた気質は、基本的には世界と闘う上ではプラスに機能しているのですが、一方で国内の闘いにおいては重い障壁になっている事実が、ここに晒されてているのです。

敵は本能寺にあり

これは信長が予測できなかったイレギュラーだったわけですが、これを言ったとされる光秀も自分自身に潜む問題を、自分の中で解決できなかった上での暴挙だったことを考えると、多くの課題は変えられる側ではなく変える側にある自覚にあるのかもしれません。

こうした日本の重厚な価値のある歴史を手厚く保護してきた私たち日本人には、一度受け継いだ歴史を再解釈するスキルに乏しく、むしろ歴史で培った財産を新しい解釈で活かすスキルが、もとめられているのでしょう。