核廃絶。なぜ日本は“そういうこと”になったのですか?
昨年にノーベル平和賞をとった新しい団体は、核兵器廃絶を積極的に進めていることで話題になりましたが、そのICANの主張は本来どの国が言いだしたのか、日本がグローバル社会で本格的に主導を目指すのなら、彼らに背を向けてはならないでしょう。
国内メディアがバッシングを恐れ、系列化による保守化で情報の公平性に偏りが生じる一方で、速報性で有利でも信憑性に問題を残すネット情報の浸透が、正しい情報を見えにくくしている中で、彼らの声をどう受け止めれば良いか考えます。
今後、この団体の発言力が大きくなるかは、ミレニアム世代の関心と参画がどの程度膨らむかにかかっていますが、日本にとって過去の反戦ムーブメントとは、一線を画しているように思えてなりません。
欧州に本部を持つこの団体は、従来日本が担ってきた反核の立場を、ようやく欧米側から積極的に訴えようとする団体として、現実的に日本より影響力は大きくなっているようです。
その大切な時期に、日本のスタンスは昨年末からこの団体と入れ替わるかのように、北朝鮮の核兵器開発の危機から防衛することを理由に、防衛費を増やすと同時に核兵器禁止条約の批准から背をむけていきます。
昨年例年通り8月には広島と長崎で慰霊祭が開かれ、黙とうしているにも関わらずその思いも覚めやらない秋には、上の理由で簡単に態度をひるがえしてしまいました。
「そんなバカな! そんなつもりはない」
と心の中では戸惑っている人が大半だとは思いますが、政府は国民を代表してそういう態度を国際的には表明してしまったわけで、海外からは確信犯的に態度を右傾化していると解釈されている事実は、一般的な自覚としてはとても曖昧なのではないでしょうか。
もちろん、隣の“仮想敵国”の脅威は実際に起これば、日本にとって大打撃になるので、防衛強化するのは至極当たり前に思えるのですが、海外の目から見て急に態度を翻す様は、どう見ても怪しさ満点にしか映らないと言う事実に、どれだけの人が自覚があるかということです。
これは、かつての日本が大東亜戦争に踏み込んでいった流れと似ていて、当時の人はきっと戦争をこうして正当化して、政府の行動になんら不信感を持たなかったんだろうな、と妙に納得してしまうのです。
ICANの存在は、海外の生の声を知る上では日本にとって、彼らの主張は欧米人目線が見受けられるにしても、その主張は鏡になり見直す機会をあたえてくれるものであり、かつて国内で若者がリスクを背負ってまで起こした反核・反戦運動とオーバーラップするものです。
こう考えると妙なシンクロを思い起こしますが、過去で言えばお隣中国で起こった国民の革命運動だったり、今ならミャンマーにおいてスー・チー氏が置かれている国際的立場に、日本の今の立場とのシンクロに納得してしまう人は少なくないのではないでしょうか。
彼女の心情を図るに、純粋な平和主義は得てして利用され、四面楚歌に陥っているように思えてなりませんし、その姿から日本は学習するべきでしょう。
「ついさっきまで平和主義国の筆頭だったミャンマーと日本が……」
なぜこんなシンクロが発生するのかを省み、国際標準からの出遅れを同じアジアの歴史から学習することで、国内事情をごり押しし敵を増やすロケットボーイの国や、民族問題のクローズアップで立場が逆転した国と、似た問題をかかえている日本に気づかなければなりません。
これらの国と同じ地層学的課題を、いかに欧米の「極東」目線のハンディキャップを乗り越え、事あるごとに優位に立とうとする欧米の、ロジック変換のチカラワザとの頭脳戦にさらされている緊張感は、忘れてはなりません。