くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

マンスプレイニングって……男だけが悪いんですか?

 マンスプレイニングについてシェアしたいと思います。

 

マンスプレイニングとは、「MAN(男性)」「EXPLAIN(説明する)」が合わさった新しい造語だそうです。

筆者が興味を抱いたのは、このブログでも何度もテーマにしてきた男女の言い分に差があって相容れない、社会問題について関心があったからなのですが、その問題の中で特に女性が感じる男性への憤りを表現した新語と言えるでしょう。

 

マンスプレイニング
http://m.huffpost.com/jp/entry/15231496

女性に男性が偉そうに解説する「マンスプレイニング」を、1枚の漫画が的確に表現している

m.huffpost.com

 

 記事では、女性が尋ねもしないことに、説明したがる男性が多いことへの憤りとして取り上げていますが、それに対する賛否両論が展開しています。

明確に男女の論争とはなっていなくて、あくまでいろんなご意見があるよ、というスタンスで、ことが無難に結ばれてますので、ひとえに男女間戦争にまで至っていませんが、このマンスプレイニングは女性が男性にチクリと刺したいときに使えるワードみたいです。

 こうした、男は......とか、女は......とかの言い分は尽きない話ですが、男女間に限らず社会問題生活では慣習の違いで怒る認識の相違の話題は、いたるところに見受けられます。

 

通勤電車の一等地「ドア横」巡る仁義なき戦い | 通勤電車 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

toyokeizai.net

 

上の記事ではのようなケースは思い当たる方も多いと思いますが、これらに共通することは、社会生活する上で自分の個人生活とのギャップを、容認できるかどうかの問題かもしれません。

 違法でない限り、人はそれぞれ許された範疇で自分に都合のいい行動を取っていて、それら行動の中で、自分の行動とのギャップが許容範囲より外れていると、自分に都合よく解釈するために正当化してしまうため、自分も他から見れば同じように思われているのに、その事実にフタをしてしまう弱い生き物です。

 

だからこそその弱さに気づいて、客観視できるように努めて初めてイーブンな関係になるハズですが、社会生活で感じるストレスでなかなかそこまで許容できる境地にまで至れないのも、人の弱さになんですね。

そう考えると、少しは自分自身を俯瞰目線でみれたことになるのかな、とほっとできませんか?

 

人はどうしてもゆとりがなくなってくると、物事を俯瞰視できなくなります。

そのなかで、最も安易に交わされる言い分が男女間相違による諍いに他なりませんし、公共の場をわきまえない者への「いかがなものか」論争につながっているということ。

 

だからそれがどうしたと居直ることは簡単ですが、結局大事なのは自分の視点の狭さを何度も何度も自覚して、少しずつでも広い目線を持てる自分へと、自分自身が導いていくコツコツ努力こそが、こうした諍いを減らしていく最短の道じゃないかと、思う次第です。

 

 ご静聴ありがとうございました。