くろま流 × NAGOYA式 ブログ

地域産業・観光を広い目線から、東海・名古屋あるあるをリサーチ。

TATTOO(タトゥー)は覚悟の文化

 ネットの普及によって私たちの生活は、居ながらにしてより広範囲でグローバルに、便利な時代になりましたが、例えば日本と世界の文化の違いが鮮明になったことで、良くも悪くも好奇心を掻き立てられて、夜も寝られない人も多いのではと思います。

 さて、日本国内での文化に注目する今回のテーマは「TATTOO(タトゥー)の文化」についてです。 

 

バレエ界の"美しき野獣" 、セルゲイ・ポルーニンの人生 2000万回再生の動画は「ラストダンスのつもりで踊っていた」

www.huffingtonpost.jp

 

 日本では、任侠の世界で知られている刺青(イレズミ)文化ですが、最近の若者には、ファッションのジャンルで認知されているようで、筆者世代の罪悪感を背負った認識とはかなりの隔たりがあるようです。

 家族でのその認知の隔たりは、今最も大きなものになるだろうと思われますが、その最大の問題は一旦タトゥーを入れてしまうと「永久に残る」ことへの認知のギャップで、親世代は罪悪感から「後々人生に傷がつく」として子どもへ入れることを禁止しますし、子世代は世界での認知に近い世界観に傾倒して、ある種の「覚悟を刻む表現」として敢えて入れる習慣が増えているようです。

 

 子世代のTATOOへの新しい認知は、上にあげたような文化への憧れとしか捉えられなければ、おそらく親子間の認知の隔たりは永久に縮まらないものですが、そもそも日本の刺青文化も、世界でのそれと何ら変わらないものの筈でした。

 そもそも日本の刺青の歴史を辿れば古代まで遡れるでしょうが、南方から移住した民族の文化の吸収などがあげられ、その芸術性は江戸時代に花開き、「遠山の金さん」でもわかるように、ビジュアルの素晴らしさと日本の「儚さを象徴化」する精神の具現化と説明できるでしょう。

 

 また近代では、明治維新から第二次大戦後までの激動の日本社会の変化を、刺青文化は日本人の精神を支えてきたとも言えますが、今になっては任侠文化がヤクザと結び付き→極道→暴力団→日本の闇集団のような、ある種の印象操作によって刺青の文化は、極めて特定のイメージが定着してしまった経緯を見逃してはなりません。

 筆者が言いたいのは、刺青を入れるのを勧めたいわけではなく、日本でも関わってきた刺青に対する精神性と文化が、今不当に評価されている現状を再認識して欲しい、と願っているだけです。

 

 世界において刺青(TATOO)が意味する本意は、若者が理解する通り自分の人生に対する責任と覚悟に他なりませんが、残念ながら筆者世代は罪悪感しか感じないのは、明らかにTATOOが意図する本意とは大きなズレが起きていることに、ショックを受けるのです。

 それを別の面から見ても明らかで、元来日本人が持っていた「覚悟の文化」は、近代西洋文化を取り入れる名目と入れ替えに、なぜかすり替えられてきたようです。

 

 任侠界が暴力団として置き換えられてきた近代の政府が取ってきた政策は、ある意味私たちに平和と安全を与えてくれたメリットは大きでしょう、ところがその一方では日本がかつて近隣との交易で学んできた、多様性や柔軟性を限定してしまったようです。

 さらに残念なのは、日本の地理だからこそ成し得た豊かな文化が活かされる筈の可能性を、ある種の方向に歪めてしまったために、日本人の独特な精神が変わってしまったのかもしれないと、実感することです。

 

 最後に、目に見えない精神や文化の個性を残すには、史跡などでも残されるものではありますが、その一つの表現方法としての刺青は、特に日本人にとって最も核にある心の拠り所を表すものとして、決して罪悪の象徴として残されるべきものでは無いと、考え直して欲しいですね。