くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

日本に外国を持ち込む気質もたゃーぎゃーに。

 

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 すっかりブランドとして定着した京野菜や、今開発が進むジビエ料理などの郷土特有の食材たち、東京でも江戸野菜を売り出そうとするワークショップが進んでいるとか。

 江戸っ子気質なのか、ぶっきらぼうな試みを見るに連れ、思いはあっても他力本願的な日本人の姿がダブって見えるのは、海の向こうの人々や文化との付き合い方に、不慣れな姿をそこに見るわけです。

 

 単に経験不足なだけなんでしょうが、彼らが生きてきた背景に関心を持てる自分にするには、どうすればいいのか、考えましょう。

 むしろ、このイケイケの空気は外国人が、精神的に日本人の一歩を踏み出す瞬間を、今かと待ち望んでいるようなもどかしさも感じます。

 

 モーラムとタイ人みたいな、ご当地ソウル音楽や食堂、ショップなどの憩いの場を設ける動きは、日本人の中でも20代30代の若者から、個性化に目ざといところから関心があって、深堀りするのがトレンドになっておるとか、ムーブメントがある一方で、コミュニティは減っているそうで、メンタリティの違いが顕著に実感されるそうで、日本人のコミュニティに入りにくい空気を超えられず、悪循環になったり帰国を余儀なくされるケースは未だあるとの事。

 子どもに至ってさえ馴染めない環境は、まず日本人同士でさえ悪しきムラ社会的メンタリティの変化を自分から作っていくにはどうすればいいか、身の回りから一歩づつ改良したいですね。

 

 

 海外文化におおらか、と言いますか、節操がないのは、大昔から日本に住む人々には、当たり前だったのでしょう。

 何と言っても神道なる概念は、玉虫色という美辞麗句に表されるように、それを適度に助長してきた経緯が証明しているので、とやかく言わなくとも何とかなってきたのかもそれません。

 ただ最近外国人が増えるに連れて、物言いと言いますか、影響力を示す外人の声も避けられない時代になる一方では、特に商業・産業を中心に見直しが求められつつあるようです。

 

 日本から見た外国というフィルターだけでは、ITの発達した世界にあってはより日本らしさを示したた上で、異文化を受け入れる姿勢が待ったなしで求められています。

 しかしながら、私たちは頭で考えているより器用に受け入れられているでしょうか。

 この面での責任を追わずに済むであろう高齢者世代ならまだしも、現役世代や若者達までもが、その拒否の空気を引き継げば、このまま精神的鎖国になりかねないだけに、新しいインバウンド関連の試みをニュースする情報に、意識して耳を傾ける習慣を持てているでしょうか。

 

 自分は関係ないとタガをくくるうちに、自らの生活範囲を狭める羽目にならないためにも、海外の文化や習慣、宗教に機会に触れて関心をもつのは、今の日本を生きるのには、習慣化しておきたいスキルでしょう。

 最近では、外国人を身近な場所で見かける機会が増えている実感が強い人ほど、その意識化はとても役立つはずですが、私たち日本人は異文化の人々に対しては、とてもシャイで消極的です。

 

 イングリッシュネイティブにいきなり話しかけ、異様な顔をされたという経験は、歩み寄る積極性を阻む体験となりますが、この極端な行動を求める話ではなく、普段通りに席を譲るとか落とし物を拾って渡すと言った、普段の親切を機会がある時に外国人にしてみるだけの事です。

 

 日本人に施してイヤな顔されることを、外国人でもイヤな顔されるのは同じですし、むしろ外国人のほうが、日本の文化礼節を最低のマナーとしてわきまえているケースも、結構見かけます。

 私たちは異文化をリスペクトしすぎる余り、へりくだって失敗したりします。

子供時代から鳴らされていないので、やむ無しのですが、気負わずにニュースや文化の話題から、身近な外国人のバックボーンを考察していけば、自然と硬さも消えるんじゃないか、と思う次第です。

 

 訪日外国人がすでに、お仲間が来やすい環境を作ろうとしている時代ですが、日本人がそれを出来ていない現実に、もっともどかしさを覚えるのです。

 防犯などのネガティブメンタリティがフォーカスするのは当たり前ですが、その反面にあるポジティブなメリットにも目を向けて、外国人のアクティビティを積極的に実践してはどうでしょう。