朝までとは言わないけど新年に、Eラーンニングとわが子の未来を考えよう
子供たちが、教育を受けたり学べる受け皿を獲得するためには、そのベースに必要なのは「自由な民主性」 を大人が認めてあげることなのだと思ってます。
さて、前回年始第一弾からほとんど書けなかったテーマについてここからが、始まりですよ。
前回最後のさわりに「キッザニア」の記事を出したのは、ご想像の通りこの施設がセミリアルな職業体験を通して、子どもたちの情操を刺激する現体験を得られる稀有なアトラクションだからです。
東京にこの施設がオープンされたと知ったとき「仕事を楽しく」「社会の仕組みが遊び感覚で体験」できる新しいさに、軽い衝撃を受けたのを憶えています。
人口減少やデフレの慢性化で、未来へ加速するはずの原動力である、子どもたちへのモチベーションをくじくような背徳感が、大人の胸の中に少なからず秘めざるを得ない時代が続いていて、ようやく長いデフレ期から抜け出れそうな空気を、感じられるようになって年を越えたのです。
しかしながら、未だに子どもの貧困やシングルマザーの冷遇の話題が、今年からも後を引くのは確実で、その貧困さえも「個性」として社会が認めて、自分の事のように考えられる民主性と自他的な思考が自由に考えられる心のゆとりを、この上向きの空気に変わろうとする今、期待したいところです。
かつて筆者が働き出したころ、朝礼の自由スピーチタイムに、
「人々みなが、手をつないで進歩できる世の中をイメージして、仕事に役立てたい」
といった趣旨の話をしたら、当時は激しい競争時代の中だけに、
「そんな甘いことを考える暇はない、全く下らん」
と一瞥されたことがありましたが、海外ではボランティアでの個人救済や、子どものころから自立する力を育てて、起業する教育を当たり前にする一方で、当時から今に至るまで日本では、子どもの頃からタテ組織を刷り込んで、競争社会に駆り立てました。
タテ社会は、共有や共存を阻害しながら、狭い日本なのに企業間の秘匿性や独自性を高めたために、気が付けば世界から孤立し、誇るべき高度な技術のガラパゴス化を引き起こしてしまった。
所詮日本程度の国土の中で、広い世界で起こっている競争と同じ事を、国内であそこまでする必要はなかったのですが、これも世界のニーズを顧みずに精緻な技術を生かせていけなかった、日本産業の不器用さの現れでした。
たとえば、名古屋でも教育モデル都市にもしていされたり、教育には愛知県含めて力を入れてきた土地柄だと思っていましたが、いじめが原因で自殺した少年がいたり、昨年は両手をあげて喜べる状態ではありませんでした。
河村市長や大村県知事も、積極的に調査を指示したり、国に嘆願したりもしていましたが、教師の児童生徒への性的虐待や、教師の職場環境悪化など、全国の教育現場は様々な弊害を抱えているのは否定できません。
これらの轍を二度踏みしないためには、今の大人たちの失敗や恥部をいかに開け晒して次の世代に伝えるか、という壮大な課題をわたし達大人に突きつけています。
その中で、政府は次世代の教育手段として、Eラーンニングを積極的に導入しようと躍起になっていますが、正しいかどうか時期尚早・未成熟など導入を懸念する問を投げかける人は少なくないようです。
その骨子には、教育=手間・ひま、費用がかかるにもかかわらず、その教育の担い手である「聖職」は完全に俗化し、さらに少子化がそれに追い打ちをかけている現状からの苦肉の策ということになっているようです。
ところが、今の段階では十分にかみ砕かれていないままの手段を、真顔で政府がさもありなんというか、しれっと導入しようとしていて、さらにその教育ソースやノウハウは新興の教育関連企業の提案に丸投げ的なツールであって、文科省(旧文部省から)の旧態的な教育理念を、なんの改編もせずに単に紙をタブレットにすげ替えただけで、新コンテンツですって言ってるような……。
まず教育が配慮すべきは、今までの子どもたちとは違って明らかに増えるのは、どんな大人になるにしても国際問題・環境課題と触れる機会は格段に増えるということへの対処方法を教えることです。
これは単に環境問題だけにとどまらず、どれだけ国際と無関係な仕事に就いても、生活そのものに国際的なソースに巻き取られる宿命にあるというレベルになるわけです。
今後は想像以上の短期間に、情報媒体の劇的な高速化によって、旧世代の大人が想像する以上に、大きなグローバル化との関係に巻き込まれるという緊急的な問題です。
今の子供たちは、幸か不幸か幼少時からハイピッチなゲームで、情報の急速な変化に慣らされているのが救いかも知れませんが、すべての子どもに当てはまることでもありませんし、これでは応用は利きようがありません。
大人は、その橋渡しをしてあげなければなりませんが、その教育を家庭レベルでみていくと、日本は圧倒的に女性にその重荷が偏っていますし、ようやく男性もその重要性に気付いてはきましたが、海外先進国のそれに比べて心もとない認識度です。
Eラーンニングとは、単に手間暇を省くために使うものではなく、国際的な教育格差を無くしてオープンにできる、画期的な手段なのです。
これを旧来の既得権益の手の届くハードウエアの行方に依存しては、せっかくのメリットは半減しかねない、どんなハードウエアからも共通した教育が共有できるWiFiインフラ環境を何より優先すべきと考えています。
フリーWiFi設置に必ず出てくるセキュリティ問題は、確かに重要ですが、そもそも共有する教育環境や学習コンテンツを提供するには、二の次にできる問題であって、それより問題は実用化がどんどん後回しになることへの、子どもへのリスクの方がよほど重要です。
最近、名古屋市内の栄や名駅繁華街を歩きますと、フリーWiFiステーションが、ようやくあちこちに見受けられますが、それはあくまで商業目的の利便性向上を主としていて、一方で学校内のそれは検討段階なのは、そのあまりの消極性というか、先進国での教育のガラパゴス化への懸念が拭い去れません。
日本はかつて70年程前、自国の力量におぼれて世界から袋叩きにあった経緯がありますが、今ダイナミックに変化していく世界市場への経済戦争に挑もうとしていて、もしあらためて世界の首を取ろうとしているのなら、日本は過去の反省をおざなりにしているとしか思えません。
それでも日本が世界経済の中心に立てるという意思が妄想でなくマジなら、何より次世代の子供たちに「世界に通じる教育という投資」をしていないままその戦いに突入するのは、丸腰で火の中に飛び込んでいくのと何ら変わりない、愚かな行為でしかないのでしょうね。