くろま流 × NAGOYA式 ブログ

地域産業・観光を広い目線から、東海・名古屋あるあるをリサーチ。

「ほら、笑おう」 曲の歌詞が踏み絵として突きつけたもの

   昨日、田ノ岡大和君の退院シーンが報道され、尋常でないほど多く人の祝福を受けて車で帰っていきました。悲劇から一転した心温まる事件に思わず顔が緩んでしましますね。

 さて本題です。

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 「ほら、笑おう」現役中学生がつくったこの歌の歌詞に、思わず感情移入してしまったり、逆に拒否反応をを起こしたり、こういったシンプルな歌詞の歌は、見聞きする人によってそれぞれの心の投影になるものです。

 

 いじめは、今に始まらず昔から人の住むいたるところで起こっていますし、誰もが無くなって欲しいと願うことですが、人が集えば複雑な人間関係が生まれ、主従関係が形成され力関係のしわ寄せで、いつも弱いものが悲しい思いをします。

 誰かが自己主張を強めれば、その分どうしても誰かが我慢しなければならないし、その格差は人間関係を円滑に進めるのには、避けて通れないものでもあります。

 

 日本の人々は、国土の限られた土地を上手に利用するために、集落の中で人間関係を円滑にする手段に、お互いを気遣い主張を突出させずに、波風を立たせない気遣いをする習慣を身に着けてきました。

 その反面で、心で発生する感情の問題をこれも器用に吐き出し、人知れず内に収める気遣いも覚えてしまいました。

 

 良くも悪くも感情の起伏を表面に出さずに、丸く収めてしまう能力に長けていると言えるでしょうが、良いことは良しとしても、悪いことが表面に出ない事への弊害は、いじめなどのゆがんだ現象としても顕著に出てしまうのは正直「わかっていても、どうしようもない」ものと、あきらめている人も少なくないのではないでしょうか。

 

 さて筆者は一見自己分析をしてみたとき、虐めた経験が無く虐められた経験しかないなと振り返ってはみても、さて本当にそうなんだろうか? とも思ったりします。

 思い出の中に残っているのは、間違いなく虐められたイヤな記憶だけはハッキリ今でも思い返せますが「虐めた記憶?」は本当に無かったのか、少し自信がない気もするのですよ。

 

 いじめのニュースを見るにつれ、その周りの意見を読むと必ず「虐めたヤツは行為を虐めだと自覚していない」という意見が出ています。

 その意見に、虐められた記憶しか無いはずの筆者でさえ、ドキッとしてしまいます。

 

 「本当に、自分は人を虐めたことが無いのか?」

 「都合よく忘れてしまってるだけじゃないのか?」

 「忘れた上で、しれっと他人の振りして、意見をのたまってないか?」

 

 ここまで自己反芻すると、ハッキリと虐めていないと自分を言いくるめる自信がなくなってしまいます。

 

 おそらく、自分の住む名古屋市の西区に住む中学生が自殺する、という記事が話題にならなかったら、このような記事をブログにしていなかったかもしれません。

 事実、筆者はとっくに中学を卒業していて、大人社会の中でそれなりの人間関係を形成できている大人であって、子ども(の理屈で成り立つ)社会である中学校で起こった事件を、客観的かつ正確に判断できる立場にないですし、自分は虐めの対象には決してならない安全地帯から、見下ろすように虐めを見ているのですから、ここに書いていること自体が、フィクションである可能性すら否定できないのです。

 

 ともかく、一旦筆者のおかれている立場を明確にしておいた上で、この問題を語るという前提で書くわけですが、こんな悲しいまでに人を否定する行為の虐めや、その帰結の自殺を見るにつれ、無くなった少年の共感する気持ちや、その死に痛むこころを持津ことが、どれだけ大事なことかを痛感はするのです。

 だからと言って、虐めない立場だからそれに安住する、というのもおかしな話間も知れませんが、生きていればこそ虐めの根源と少なからず闘って、勝ち抜けてきた自負もあり、その立場で言えば虐めに走る側の心理も判るし、虐められる側の苦しさも解る。

 

 だから、筆者としてはどちらかを一方的に批判も肯定もできないのが本音ですので、偉そうなことを言える立場にないのかもしれません。

 しかし重要なのは、仮にどちらかの立場であったとしても、筆者のように中途半端な立場だったとしても、絶対に常に自分の主張を明確にできることが大事で、後悔するようなことをしたのなら悪びれずに反省して二度としないとか、逆に理不尽だと感じたらその気持ちを吐き出せる準備をしておくことです。

 

 人は、生きている以上(極論ですが)虐める立場になることもされる立場になることも必ずあり得るます。でもそのどちらになった場合でもそれを諫めるのは自分だけであって、自分を忘れてしまったら誰も助けてはくれないという現実に、早く気づかなければならないということです。

 

 この名古屋の少年の話を待たなくても、全国で止まらない自殺の根源には、身近に寄り添っていきるからこそ起こるパーソナリティの閉鎖間や疎外感が、本来上回るべきはずの共感・理解度より大きくなってしまってる現実があります。

 

 今「不寛容社会」というキーワードに例えられる、私たちの身に迫る問題があるそうですが、かつてと比べてあまりに簡単に他人の個人情報がさらされて、プライバシーの確保が困難になったり、自ら閉鎖的な集団に参加して人間関係が複雑になることが、とても多くなりました。

 情報社会がもたらす新たな人間関係に、参加者自身が飲み込まれて身動きできずに、その不満が見ず知らずの人の行為を、その人の生活環境を熟知しないままに、自分の環境とたやすく置き換えて物事を判断する弊害。

 

 さらに、その不寛容に悪循環のように同様の感情が重なって、不満だけが一気に往復していくこの怖さ。

 これは、今まで日本が得意としていたチームワームで問題を乗り切る力にも、多大な悪影響を与えかねない深刻な現象です。

 

 本来ある筈の共感や、同情・思いやりという、人にとってとても大切な情緒を安定させるのに大事なものより、今までなら隠し抑えていた不満・反感がネットに一気に加速して攻撃する、新型の虐め。

 ご近所同士顔も見えていれば、いろいろと気遣いもできていたのに、見なくても知らなくても一方的にプッシュ型で押し付けられる三面記事に、いやでも刺激されて反射的に反応できてしまう世の中。

 

 この世のなかでは、よく見かける隣人やいつも学校や会社で出会う友達・同僚とのスキンシップやコミュニケーションがあっても虐めは起こるのに、見ず知らずの相手にはとても共感するなんて無理なのでしょうか。

 

 こういう社会だからこそ、現実にいる身の回りの人々との触れ合いを良くも悪くも体感しながら、自分自身を見失わない自覚が、それこそ生き抜く武器になっていくのは、必然のような気がします。

 

 日本人が、培ってきた人への気遣いで不満の吐き出し方が、不得手になってしまったように見えます。自己主張するのに罪悪感を感じる人が多いようですが、自分を良く知ってないと、過度に自己を抑圧して無意識に結果傷つけては、本末転倒です。

 必ず必要悪は生きる上で必要だと、大人なら熟知しているはずですが、子どもにはまだそのような処世術はわかりません。

 周りの親や先生などの大人がその処世術を教える前に、ネットなどで知ってしまう子供たちが多いように感じます。

 それは大人は知らない子供社会の現実を作ってしまう温床にもなりかねませんし、これが本来あるべき意思疎通の阻害にもつながっているのも事実。

 

 大人は、昔と違っている今の子どもの生きる情報環境に早く気づいて、言いにくいことも早い段階で子どもに諭す勇気は必要ではないでしょうか。

 

 「ほら、笑おう」この曲の歌詞に並べられた言葉は、きれいごとと大人が言ってしまえば話はそれで終わりです。

 ただ、もう一度自分が子どもだった頃を思い出してください、決してきれいごとだとは思っていなかったはずです(おそらく)。

 今はネットや身の回りの情報で、冷ややかな目で見る子どもも少なくないのかもしれませんが、いつしかサンタさんの存在の意味を忘れてしまうように、歌詞にある悲しみを減らすことや、希望を実現するのは正直否定したほうが楽なのを、大人は経験上学んでいるだけに否定に走るのを批判はできません。

 

 それでも、寛容と共感のない世界、潤滑剤のなくなった歯車がぎしぎしと半ば強引に回っている姿に、改めて何かを感じて見直してみようと考えるためには、その純粋さのすべてが詰まっているこの歌詞は、実現させるべき夢としての存在価値が、多分にあるように筆者は思います。