過酷な現実を受け止めた一人の女性の選択
このレポートを読まさせて貰って、ある言葉を思い出します。
「人は追い詰められた時にようやく、本当の自分と向き合う」
当にその人生を体現されたのでしょう。
筆者は男なので、出産や死産と言う経験は有りませんから、家族の死とこれから迎える自己の死については、究極の選択を体験するでしょう。
女性は、それに加えてて人を産み、不幸な場合レポートのような死産を体験することになります。
それだけでも不公平と言われればそれまでですが、やはりそのような人生のイベントでは、パートナーが居れば幸せは倍に、不幸せは半減出来るという言葉は慰めにしかならないでしょうか。
貴重なレポート出してくれた女性は、始めは人の三倍の幸せを共有しましたが、その過酷さ故に最悪の選択をして追い詰められたそうですが、それを夫(少なからずの男性と言ってもいいでしょう)は耐えられずに、逃避した。
これを責められるかどうか筆者は答えられません、単に常識で考えればトンデモねえ奴だ、となるでしょう。
彼を擁護する気はありませんが、何がしかの究極の選択を迫られた経験が有るものなら、おそらく完全否定出来ないだろうと思うんです。
母親は、その選択において何ら非は無く、結果が良いほうに向かって本当に幸いだったと思いますが、方法は卑怯だったとしても、旦那の方が逃げたからと言っても責められないんです。
追い詰められた人は、様々な選択をします。
その選択と結果はどうであれ、善悪で計れるものでは無いと思っています、その選択の責任は良くも悪くも全て選択者が追うことが、選択した時点で決定するからです。
人を責められるのは人ではありえません。
責める者が居るとすれば、それはその人自身です。
一生自分を責め続けて贖罪をこう人は多いでしょう、それよりそこから逃げる人はもっと多いでしょう。
ただ、それを責め続けて一生を終えていくのも、一つの人生の形と言えますが、その一方で一つの希望を見出して責めながらも、一生を全うしようと励むのも、また人の一生として有って欲しい選択だと、
信じたいです。
だから筆者は母親のような人は基より、旦那のような人にも、生きる以上はその責任と意味を考えながら生きて欲しいと思いました。
授かったのは三つ子、無事に産まれる確率は2億分の1... 転院に次ぐ転院、障碍の可能性、母体のリスク、過酷な現実を受け止めた一人の女性の物語 | STORYS.JP
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