心の奥にある本音は、その時にならないと現れない
今日の意見記事は、正直ブログにするかどうか躊躇しましたが、遅かれ早かれ出てくる内容なので、あえて記事ります。
大人が生きるために子供の命を犠牲にすることを今止めることはできない
ヒトの命の価値と、それにたいして自分が何をするのか、しているかの答えは一つではないでしょうから、万能の回答は出てこないでしょう。
記事の作者もかいていますが、命が大事だと思うなら、それを示すために些細なことでもアクションをおこすべきたと言っています。
日本人の感覚だと、たとえそう思っていてもアクションを起こすのが苦手な人が多いようです。
命までいかないにしても、困った人が目の前にいても、いろいろな配慮で手を差し伸べなかったり、だれか一人がやれば自分がしゃしゃり出るのははばかられる、とかの行為を言っているのなら、確かに今一度自分の行動を考え直してみる必要はありそうです。
しかし、日本国内の治安に慣れきっているひとから見て、実際に命の差し迫る状況を慮って命の価値を云々いうのは、本来無理がありますし、奇麗事はいくらでもい言いくるめられますから、その問答自体意味がないかもしれません。
結局、議事の会議場などで、自分が守られた状態でその命の危険を云々出来るはずがありませんし、自分の肌で感じられるかどうかが一つの分岐点になるでしょうか。
残念なことに人間は、自分の身が守られた場所では、いくらでも嘘をつく生き物なので、行動が伴わなければ信用されないと作者はおっしゃりたいのでしょう。
自分の命が大切=ヒトの命が大切、はあっても
自分の命が大切でない=ヒトの命が大切、はありえません
過去に例外が筆者の知っているものでは、キリストと釈迦しかいません。
彼らの到達した境地は、私たちにとって目標ではあっても本音でないということです、変に粋がらずに自然体で人間は、本気で助けるときには不思議と人を助けているものです。
それではだめなんですかね。
いのちの価値と本音 | 吉岡秀
http://www.huffingtonpost.jp/hideto-yoshioka/life-value_b_7668030.html