くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

生きる糧のイルカ漁「非難されることではない」と憤る

 

  さんざん日本の捕鯨・イルカ漁を徹底的に攻撃してきたSS(seashepard)ですが、なぜ隣国でも行われている韓国の捕鯨は責めたというのを聞いたことがありません、いったいなぜでしょう?

 

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 江戸時代から面々と続く「くじら漁」は単なる動物虐殺なのでしょうか

 

 

 和歌山県で江戸時代からご当地民の生活のために行われていたイルカ漁は、決して動物虐待の目的ではなく、生きるための糧として「命を頂いていた」のであって、日本人なら理解できるこの概念は、残念ながら(ごく一部と信じたい)キリスト教徒の考えとはそぐわないようです。

 その証拠に、クジラなどの供養塔が建てられ、漁師の人たちは敬虔な思いで生きるために命をかけて闘って、命を頂いているのです。

 ただキリスト教といっても、全てに当てはまる話ではなくごく一部の教義であるにすぎません。
 その証拠に、牛や豚など彼らに不可欠なたんぱく源は、都合よく対象から外れていますから、これほど曖昧なものはなく、ご都合主義の動物愛護論は、生命に関する価値の相違がある人々とは、相容れることはないでしょう。

 

 彼らは神の布教という名の下に、世界を回り続けて彼らの神を都合よく標準であるかのような広報活動をしてきた事もあって、彼らの常識が世界の常識であるかのようなふるまいを崩そうとしないだけです。

 世界の国には、変えられない慣習は山ほどあります、それを動物愛護の一言で片づけ、暴力で一刀両断するSSの行為は明らかに矛盾があります。


 彼らの行動は、もしかしたら反抗してこない安全な相手にのみに、好き放題の行動をとってはいないでしょうか? 

 日本人は、友好的で人のいいところがあります、しかしいくら友好的と言っても、触れてはならない心の奥まで、土足で踏みにじる行為は、知性のある人間ならば、すべきではありません。


 ものの価値観を、力でねじ伏せるその思い上がりは、敵を増やし、不用意な闘いを常習化し、力の関係で押し通そうとするその結果は、野卑な人間関係しか残せないでしょう。

 主は、そのような行いをお認めになっているのでしょうか?


だとしたら、とても残念でなりません。

 

 

イルカ漁「何ら非難されることではない」「太地が生きていくための重要な漁業」和歌山県議会が意見

http://www.sankei.com/west/news/150627/wst1506270017-n1.html

www.sankei.com