くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

7月御嶽山の捜索再開へ、山に残す想いを探して

 

  孤高の遺跡のよう。未だこの付近に人が埋もれていると思うととても胸が痛みます、山登りの意味を見直す機会ではないかと。

 

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 登山は、今やレジャー化してより安全な時期を確認して、たくさんの客が訪れていました、しかし地震・噴火が各地の活火山で活発になるなど、本来の自然の驚異を剥き出しにすることがあります。

 むしろここ数十年は珍しく静かだったと言います。本来登山は、必ず登山計画書を提出して、万が一の際の同意書を書いて入山する覚悟が必要です。

 出してもそれが何ら保障になるものではなく、あくまで自己責任でのとてもリスクのあるレジャーと言えるでしょう。

 山の上では、低地では味わえない変えがたい魅力もあると言います、その不思議な世界観も山登りのとりこにする要因なのでしょう。
 なので、行くなとはいえませんが、行けともいえません。

 筆者は、山登りの真髄を理解していないだけかもしれません、でも単なるレジャーとは違う神聖さのある領域であるのは薄々解ります、だてに太古の日本人に畏敬の念で崇められていた訳ではないと思うのです。

 山には神が宿ると山岳信仰者は言います。科学的に解釈すればとんでもなく非科学的であり、取るに足らない話だと開き直るのは簡単です。


 確かにそうかもしれませんが、しかし現実の人間は「神の怒り」を治める化学力も持ち得ていないし、その予測さえおぼつかないのが現実だというのも、否定できる人はいないのです。

 その意味では、未だ人は神の下にひれ伏すしか無いのだと思います。
自然への畏敬の念こそが、唯一その脅威から人を救う、先人が託してくれた知恵なのですから。


 遭難者全ての方に、ご冥福をお祈りします。

 

 

 

 

御嶽山の捜索再開へ7月に先遣隊…灰の状況調査 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/national/20150526-OYT1T50104.html

www.yomiuri.co.jp