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くろま流 × NAGOYA式 ブログ

名古屋在住者の視点から地域産業・観光を通した活躍を応援。

戦艦大和最後の出撃、事実を知って自分で考える事。

  この体験談は、戦争経験者の一人のリアルな言葉です。

この貴重な経験を、私たちは現在の目で測るのではなく、真摯に耳を傾けそれをまた後継者に繋いでいかなければなりません。

 こういった当事者の生の声は、例えそれが褒められない事であっても、耳に痛い話でも、学校で教えられる(例え精査された情報でも)国が定めた情報よりも、何倍も何百倍も価値のあるものであることを知らなければなりません。

 それが日本人として、賢く国際人として生きていくには必要不可欠だからです。

 こういった戦争体験談は、いろんな思いもあって今でも語りたがらない方も少なからずいらっしゃいます、自ら語っているということは、それなりに勇気と使命感があるということです。

 済んだ戦争の事は自分とはかけ離れていると考えがちですが、まず事実を知って、それをかみ砕いて自分の頭と心で結論を出していく姿勢が大事だと思いますので、可能な限り筆者も紹介していきます。

 

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写真は呉軍港を人知れず出港する、同型の武蔵

 

戦艦大和:総員死ニ方用意…1945年4月6日最後の出撃
毎日新聞
http://mainichi.jp/select/news/20150406k0000m040092000c.html

mainichi.jp

 

https://ci6.googleusercontent.com/proxy/eS7kpp0Mkvd9P__W6nbFW7BV66hkugRXN2RGCKUVpLaoZ-u0yw9PFsuIAllAnN-bvYGiBSn8NbfbZJpZ0t1z_XBHdAkfsoLuQXotjnPnCj4RT2BCeTBby61S5yPAgCOAigFcyqf2dgKd=s0-d-e1-ft#http://img.mainichi.jp/mainichi.jp/select/images/20150406k0000m040094000p_size5.jpg

大和の元乗組員の畦地さん

 「総員死ニ方用意」。そう書かれた黒板が砲塔に掲げられると、乗組員たちはざわめいた。死の準備をせよ、という命令だ。戦艦大和は2日後の1945年4月7日、米軍の猛攻を受けて沈没し、約3000人が戦死した。18歳で水兵長として乗り組んでいた名古屋市在住の畦地哲さん(あぜち・さとし、88)は、今も自問する。「死を前提とする作戦だった。それは作戦と呼べるのか」【川上晃弘】

 4月6日、沖縄に向け山口県を出港した。仲間たちは艦上で「覚悟を決めた」「いざとなれば自決する」と言い合ったが、ぴんとこない。「戦死は当然と考えていたが、実際に自分が死ぬのだとは毛頭思えなかった」

 25ミリ3連装機銃の射手だった。敵機に照準を定め引き金を引く。照準器は最新鋭で、敵機の速度や進入角度を入力すると発射角度が自動的に計算される。艦首を0度とし時計回りに160〜180度(右舷最後部)が受け持ち範囲だった。

 運命の7日昼過ぎ、見張りの声が響いた。「大編隊発見」。見上げると100機以上の敵機が近づき、高度2500メートルから1機ずつ急降下を始めていた。日本の戦闘機より急角度でスピードも速い。照準を合わせ、射程1500メートル前後で引き金を引く。全機を狙う余裕はなく、1番機の次は3番機と一つおきに狙うのが鉄則だった。

 次々に照準を合わせるため命中の確認はできない。畦地さんの右手人さし指に、引き金を引く感触が今も残る。「とても軽い。ちょっと引くとババババッと。敵機が多い時は引きっぱなしだった」

 恐ろしいのは直撃弾だ。「爆弾が向かってくるのは何となく分かる。これは死ぬ、と何度か思った」。それて海中に落ちると艦橋を超す水柱が上がる。びしょぬれになり、そのたびに「俺は生きてる」と実感した。

 攻撃はどれほど続いたか。ある時点でぴたりとやんだ。「また来ると身構えていたが、もう現れなかった。気づいたら船体が大きく傾いていた」。戦闘終了を意味する「総員退去」の声を聞いた。持ち場を離れて最上甲板に出ると、遺体の一部が転がっていた。砲声はなく、静けさが広がっていた。仲間が何人か寄り添うように座っている。「いよいよだ」「思い残すことはない」。みなさばさばした表情だった。

 船がゆっくり傾いていく。傾斜がきつくなると、一人で船の横っ腹を歩いた。黒色から赤色に変わる喫水線まで行き、そこで靴を脱いで息を吸い、頭から海へ飛び込んだ。

 何秒間潜ったか。顔を上げると数十メートル先に大和が見えた。直後に火柱が上がり、黒煙に変わった。大和の姿はもう見えなかった。

 同僚と浮遊物につかまり漂流を続け、そこで歌ったのが、敵艦隊を沈没させた時の軍歌「轟沈(ごうちん)」だった。「自艦が沈められ『轟沈』はおかしいけれど、元気が出ればどんな歌でも良かった」。数時間後、味方の駆逐艦に救助された。

    ◇

 「結局、運だった」。生死の境目について畦地さんは言う。敵の攻撃も予想され駆逐艦の救助活動は日没で終わった。海面にはまだ複数の乗組員が漂っている。「彼らは救助直前に望みを断たれた。助かった私と彼らの間に何の違いもない」

 戦後は名古屋で親族の運送業を手伝うなどして生計を立てた。大和は今も海に沈む。遺骨や船体を引き揚げる話もあったが、畦地さんは反対する。

 「彼らは大和と共に逝った。大和を枕に休ませてあげることが一番の供養と思う」

 ◇戦艦大和

 全長263メートル、基準排水量6万5000トン、46センチ砲3連装砲塔3基を搭載した史上最大の戦艦。1941年12月に就役し連合艦隊の旗艦を務めたが、海戦の主体は既に航空機に移行。威力を発揮できぬまま、米軍の沖縄上陸を阻止する「水上特攻部隊」として航空機の護衛なしに出撃し、45年4月7日に屋久島沖で米軍機に攻撃され沈没した。乗組員約3300人で生還者は276人。

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