くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

名古屋空襲は『実験』だった?

 いきなりこの表題では、首を傾げる方もいらっしゃるかもしれませんが、ここでで言う”空襲”とは第二次世界大戦時、1945年の名古屋空襲のお話です。

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 当時名古屋で三河・名古屋に三菱などの軍需工場があった関係で、名古屋市は早期から米国軍の本土空襲の候補に挙がっており、空襲は実施されました。
その事実は知られていますが、その理由が単に軍需設備の破壊にあるだけでなく、民間施設、軍人以外の民間者に対しても爆撃や銃撃が行われていた事実もここ最近判明したところですが、その中で目的が他にもあったのでは?という疑念は抱いていました。

 今回その疑念が、残念ながら当たってしまった事を証明する調査結果が記事になっていましたので、紹介します。


中日新聞Web(2015年3月12日 朝刊抜粋記事)
 名古屋市街地への米軍の本格的な無差別爆撃が始まった一九四五年三月十二日の名古屋空襲から七十年。この日から終戦までのわずか五カ月の間に、約六千六百人の市民の命が失われた。その中で、一夜で千六百人もの死者を出した最大級の空襲が、爆撃の効果を検証するための「実験」だったことが、当時の米軍の資料から明らかになった。

 資料を分析したのは東海高校教諭の西形久司さん(56)。研究成果を「歴史地理教育」三月号に発表した。

三月二十五日未明の市東部への空襲。一般的に無差別爆撃と受け止められてきたが、「米軍公刊戦史」(五三年)には「夜間精密爆撃の実験は短期間で終わった」などと書かれている。

 米軍公刊戦史は、標的への爆撃効果が乏しかったことから「取るに足らない結果だった」と記す。しかし、地上では、それた爆弾が市街地を襲い、千六百人もの市民の命が失われた。西形さんは「落とした側と落とされた側で、決定的に認識が異なることが分かる」と指摘する。

 

 当時連合国側は敗戦後の日本国土分割統治などもささやかれ、アメリカも軍需産業の兵器実験場に日本を使った事への証明となりそうなのは残念です。
前記事でアメリカ人富豪による戦艦武蔵の沈没映像公開という偉業をほめたたえる記事を出しましたが、今でこそアメリカ人の日本への敬意はあるにしても、当時戦時中のアメリカ人の日本人への差別意識がうかがえる記事です。

 それを今さらと水に流すのか、今後の関係改善に活用するかはそれぞれの判断にゆだねたいと思います。