熊本城復興400年の歴史、25年かかっても威光を取り戻す
熊本城は400年の歴史があるそうです、その城への思いは震災によってますます堅固なものとなっていますが、城への思いは名古屋でも城のエンターテインメントとして表現されています。
日本の歴史観光を取り扱っている地域の、観光客へのアプローチはさまざまな方法を取っていますが、名古屋で始めた「おもてなし武将隊」と言う新しい試みは、今や10か所以上の地域に広まり、役者の演武によって地域の人々に愛着心を強くしてくれました。
その中でも創始者の名古屋と、熊本は加藤清正と言う共通の名将によって大きくつながっています。
実際にも「名古屋城おもてなし武将隊」と「熊本城おもてなし武将隊」は双方の地で交流していますが、筆者前者しかライブを見たことは無いですが、後者もYoutubeで拝見して、優劣つけがたいほどのパフォーマンスを見せてくれています。
むしろ熊本の県民性でしょうか、一見無骨ですがじわじわと湧いてくる力を強さや男気が感じられ、好感が持てる程です。この点では元祖もうかうかしていられませんね。
さて、震災での注目を集めたことで、熊本県民の実直さやアツさがクローズアップされてきましたが、彼らの思いとはどのようなものでしょうか。
「城は熊本の宝じゃ。」
と言ってはばからない県民性は、日本人が本来持っている思いと相容れるところがあって、幾度となく共感を誘います。
城は400年の間に幾度のピンチを潜り抜けてきました、その時地元の人々の知られざる思いとは何だったのでしょうか。
熊本市内のいたるところから見える、熊本のシンボルは漆黒な勇壮さを楽しめます、昨年では160万人が訪れた、国内随一の観光人気スポットでもあったのです。
行幸橋(みゆきばし)加藤清正、名古屋でも有名な槍の名士が立てた城づくりの名士でもあって、彼の功績が大きかったと言われます。
加藤清正は幼くから秀吉に仕え、父のように慕って育ったこともあり、清正の忠義は信用され、その功績をたたえられたました。
慶長三年1593年秀吉の死後、豊臣の天下を脅かそうとしたときに清正は自分の領地に築いた熊本城を根城に息子を移させ、豊富復帰の準備もしていた、最後まで秀吉に傾倒した将君でした。
さて、熊本城の最高で20メートルという石垣が立派な敷地は、大阪城のそれを想像させるスケールの大きさ、筆者大阪城の石垣は見ましたが、それに違わないとはさぞ立派なのでしょうね。
扇の勾配と呼ばれる安定感と美しさを兼ね備えた実用性の高い石垣は武者返しの石垣とも例えられるように、迷路のような通路の構築は、防御の城として機能する機能美も有する興味深い城だそうです。
昭和35年に再建された天守は美しく、高さ30mを超える勇壮さは、今更筆者が言うまでもありません。
他にもこの城見せ場が多く、今でも小天守が幾つか残ってますが、かつてその他にも60もの小天守級の櫓が立ち並ぶ、難攻不落ともいえる規模だったそうで、宇土櫓(うとやぐら19メートル)は立派で、彦根城や松山城と同じ規模の大産の天主とも呼ばれるそうです。
東京ドーム21個分敷地の中に、何十もの石垣、大小2つの天守と、60もの櫓が攻めるものを萎えさせる程の鉄壁な造りは、城の在るべき雄姿を今も残していますが、遂にはその機能や威力を発揮される事無かったと言います……。
熊本城への市民の思いは、今震災に遇ってなお強く、復興にその地震のモチベーションを重ねる姿に、思わずムネアツになリます。
この地は大きな活火山を二つも有していて、かつて何度も震災に遭っていますが、寛永2(1625)年、江戸時代のはじめの熊本城築20年後に大地震が襲いました。
記録では、一日中続いた揺れは強固な城や石垣さえも砕き、崩れ、誘爆も手伝って壊滅的な被害を受け、寛永9年(1632)新しい殿様、細川忠利が訪れた際に、立派さを江戸城のほかで見たことがないと言わせしめるも、その被害を受けたまま放置された城の有様に愕然とし、ようやく修復が実現しています。
当時の計画図面には石垣27か所、櫓28か所、門壁合わせると80か所という大工事と察せられますが、地方小国で余裕のない中でも、資金を捻出して立て直しています。
しかし同時期に幕府からは、外様に対し江戸城造営の全負担を熊本藩に勅命が下り、巨額の資金ねん出を前に、熊本城の修復はとん挫するかにみえましたが、藩主の思いはそれをゆるさず、藩の貯金・不足分は借金で賄い、10年もの工期を擁しましたが、同藩は見事粘り腰で見事両方を実現させました。
江戸時代だけでも8回の震災に遭っており、安政の大地震、元年1854年が最大だそうですが、その苦難にもあきらめず代々の藩主にその復興の精神は受け継がれたと言います。
江戸太平の世以後も、細川藩はすでに城の本来役目はなくなったものの、その思いを失うことなく熊本のシンボルとしてあり続けました。
一般道からもうかがえる石垣・櫓の崩落に見るに耐えませんが、各地の城郭を持つ観光地などから、多くの支援金が送られるなど、雨降って地固まるでは無いですが、その共感ぶりはそういった歴史を持った熊本城へのリスペクトなのでしょうか。
しかし熊本は、明治維新の10年の西南戦争で、ついに戦いの舞台になりました。
立てこもる西郷軍の攻めに対し、ろう城する藩士にとっては、難攻不落とも言える本来の性能をいかんなく発揮し、西郷にして。
「官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」
と言わせしめた堅牢ぶりは、皮肉にもその時証明されたと言います。
その後は、度重なる地震においてその国力を失った熊本は、城を放置せざるを得ませんでした。昭和2年には漸く宇土櫓は修理を敢行、それを一目見ようと市民が目にした光景は、哀れな天守閣の姿だったそうですが、
一念発起した市民は、いつの日か天守を再建したいと誓った。
現実となったのは、戦後昭和30年代全国では、岐阜城、和歌山城、広島城、名古屋城など再建する地域があったものの、一人の名士が5千万円もの寄付をしたことで、その名士金融業を営む松崎吉次郎氏の熱い地域への思いに、漸く再建のめどがたったのです。
その報道に、瓦募金など募金活動が、再建に一役買いたいと市民も参加へと運動が始まり、昭和34(1959)年ついに起工されます。
この城も、明治に撮影された写真を基に、鉄筋ではあったが外観は忠実に再現され、35年9月熊本城天守が落成、83年ぶりにその雄姿をよみがえらせたます。
訪れた市民は、その力強い姿にその偉業をたたえあったと言いますが、戦後の名古屋城でも同じようなことがあっただけに、とても熊本の人々の当時の思いは共感できるものです。
こうして、今に続く熊本城の雄姿は400年経った今も、継承されていたのですね。
また昭和36年、平御ひらおん櫓は41年馬具櫓などの店主を取り巻く櫓も順次再建され、平成17(2005)年には飯田丸五階櫓再建されました。
そしてその集大成が、平成20(2008)年の本丸御殿再建であったと言いますから、名古屋城の復元ととても共通した点が多いように思えて、ますます共感できます。
熊本城の本丸御殿は加藤清正の執務生活の場、一番奥には贅をつくした金箔を施した絢爛豪華な部屋には、秀頼をかくまうつもりだったとも言われているそうです。
本丸御殿は、今回の地震の犠牲にもなりましたが、被災復興もままならない今でさえ、市民の思いは熊本城に向けられていると聞くと、その思いの深さに感銘します。
今、天守閣を再建しようとする名古屋市には、同朋とも言える熊本からの、木造再建を望む熱いエールさえ届いています。
熊本県民の、その面々と続く城を思い続ける精神に、恥ずかしくないような街のシンボルにしようと、河村名古屋市長は、不退転の覚悟で臨むとますます息を荒げているようですが、さてさて名古屋市民へ熊本市民の城への思いは、どこまで届くのでしょうか。
これからが、楽しみです。